第68章―3
鷹司信尚と自分、上里美子は幼馴染の縁者という関係になる。
何しろ自分の叔母の九条(上里)敬子の夫は九条兼孝であり、鷹司信尚は九条兼孝の甥なのだ。
更に学習院では1年違いの先輩後輩になる。
だから、折に触れては鷹司信尚に逢うのが、自分が日本に来た頃から稀では無かった。
とはいえそもそもの身分が違うし、更に言えば正妻の養女になってはいるが、実母は妾(それどころか元をただせば異国の奴隷)になることから、異国の血が混じっている自分は、摂家の次期当主の鷹司信尚からすれば、単なる幼馴染の縁者とずっと自分は考えて来た。
ところが、自分が14歳になって早々に鷹司信尚に求婚された。
とはいえ、そういった事情から自分は鷹司信尚の愛妾で構わない、と考えたのだが。
義理の伯母の織田美子にしてみれば、義理の姪が妾というのは気に食わず、暗躍したという訳か。
「(織田)美子が辣腕の宮中政治家というのは、お前も知っているだろう」
「はい」
気持ち声を潜めながら言った清父さんの言葉に、美子は肯かざるを得なかった。
大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範。
宮中と政府を峻別している基本法で、皇室典範は大日本帝国憲法と同格とされている。
とはいえ、最初の皇室典範はかなり緩いモノで、例えば、皇位継承についても今上陛下の指名によるとする等、宮中以外の者からすればもう少し厳格化すべきとの声がしばしば挙がっていた。
実際、今上(後陽成天皇)陛下の皇太子を誰にすべきか、実弟の八条宮智仁親王殿下か、第一皇子の良仁親王か、かなり宮中内部では揉めたらしい。
本来は第一皇子を皇太子にすべきだが、今上陛下は八条宮智仁親王に譲位したいと言い出したのだ。
実際に日本史上の皇位継承の歴史を振り返れば、今上陛下の主張はそうおかしくはない。
更に言えば、そういった状況から、第三皇子の政仁親王の外祖父になる近衛前久は、対立する二人のどちらが皇位を継承しても遺恨が遺ってしまう以上、自分の孫の政仁親王こそが今上陛下の皇太子に相応しい、と暗躍する事態にまでなったのだ。
そういった状況下、織田美子は政敵の筈の近衛前久と積極的に手を組んだ。
織田美子が、三条公頼の死後養女になって三条家の当主代行になったのは、近衛前久のお陰だったのだが。
かつて正親町天皇陛下の意向を汲んで、近衛前久に美子は敵対したことから、恩を仇で返した女だと近衛前久は怒り、そのためにずっと二人は政敵になっていたと自分は聞いている。
ところが、この件で今上陛下の意思は八条宮智仁親王にあったのに、美子は公然と近衛前久と手を組み、更に自らの縁(義妹が九条兼孝の正室の敬子、娘が二条昭実の正室の陽子であること)まで活かして、摂家全体の総意が政仁親王を皇太子にすべき、という状況を作ったのだ。
更に皇室典範改正に美子は乗り出して、近衛前久らと手を組んで皇太子は今上陛下の皇后腹の皇長子が最優先と皇室典範を改正してしまった。
そして、今上陛下の皇后腹の皇長子が誰かというと、言うまでもなく第三皇子の政仁親王である。
臣下、それも本来は日本人でさえない女が皇位継承に口を出すとは、と今上陛下は激怒したが。
それこそ正親町天皇の時代に、北米独立戦争が危惧される中、「君臨すれど統治せず」の原則から、正親町天皇陛下が年季奉公人廃止法を制定している現実がある。
だから、今上陛下は、皇太子に正式になった政仁親王に様々な嫌がらせをするという子どもじみたことまでしたが、この皇室典範改正を受け入れざるを得なかった。
そうしたことまでした織田美子からすれば、自分の縁談を動かす等、児戯といってよいことだろう。
美子は伯母が本当に怖ろしいと感じた。
この話の八条宮智仁親王と良仁親王の皇位継承問題は史実を参照していますが、後陽成天皇の態度は史実と違うので、念のために申し添えます。
そして、上里清らは誤解していますが、織田美子としては皇室尊崇の想いから、後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王が皇位を継承しては、それこそ持明院統と大覚寺統が対峙したかつての事態を引き起こしかねない、と危惧して敢えて近衛前久らと手を組んで皇室典範改正という荒業を行い、皇位継承の安定化を図りました。
(とはいえ、そのために織田美子の悪名は益々高まりましたが、織田美子はそれを甘受しています)
この話にはこういった裏話があります。
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