第65章―1 この頃の日本本国と植民地の関係
新章の始まりになります。
少なからず時をさかのぼる。
1600年4月、伊達政宗は農水相に就任して内閣の一員として奮闘していた。
さて、時の首相が誰かというと。
「事実上の身内というのは色々とやりにくいものだな」
「そうは言っても、それに貴方も賛同したのでしょう」
「その通りだが」
今日も今日とて、いつものように片倉景綱に政宗は愚痴っていた。
内閣の一員として、首相に政宗はよく会うのだが、微妙にやりにくい。
政宗は何だかんだ言っても、東北の山生まれどころか、南米生まれである。
それに対して、首相は京生まれの京育ちなのだ。
その癖、外国に行っての外交経験まで持っている。
(尚、当然と言っては何だが、政宗には外国訪問の経験は無い)
一応は京で育ったといえ、生まれの違いを感じてしまい、又、外交経験の差まであっては、政宗に取ってやりにくい上司、首相といえた。
さて、改めて名前を明かすと、時の首相は二条昭実だった。
政宗にしてみれば、昭実の妻は従妹になる織田陽子(信長と美子の娘)なので、昭実は義理の従兄という関係になる。
尚、(この世界においては)これは日本の憲政史上初めての衆議院議員以外からの首相就任だった。
1598年の衆議院総選挙で労農党は勝利を収めたが、それは多大な代償を払った結果だった。
総選挙中に木下小一郎、労農党の党首にして首相が心臓発作で倒れたのだ。
そして、病に倒れた首相のために、と労農党の候補者やその支持者が結束して奮闘した結果、(この世界では)初めての三選目の首相が目睫となったのだが、総選挙での勝利から首相に帝国議会で選出される前に、木下小一郎はこの世を去ったのだ。
そのために木下首相の後継首相をどうするか、それこそ与野党を交えた合従連衡騒動が引き起こされることになった。
だが、その一方で労農党の衆議院議員の多くにしてみれば、それこそ織田信長から木下小一郎への引継ぎの際に党分裂騒動が起き、そのために党勢が一時的に衰えた悪夢があったことから。
木下首相の遺言に従って、首相を選ぼうという方向が結果的に大勢となった。
そして、木下首相の遺言だが。
木下小一郎にしても、後継者についてはどうにも悩まざるを得なかったのが本音だった。
衆議院議員だけの後継者ならば、(この世界では実の甥で娘婿になる)木下秀次がいて問題無いが。
首相は又、別の話になる。
そして、木下首相の本音としては、自分を首相に押し上げてくれた恩人、織田信長の義理の甥になり、それなりに有能な伊達政宗を首相に指名したかったが、如何せんまだ衆議院議員は2期目であり、そんな首相指名をしては、却って労農党が混乱すると考えざるを得なかった。
かといって、他の労農党の重鎮となっているベテラン衆議院議員を首相に指名しては、その議員が政宗を圧迫して、それこそ政宗が速やかに首相になるのは困難になるだろう。
又、労農党内での派閥争いを煽りかねない事態にもなる。
だから、木下首相は発想を転換した。
自らの後継首相として、二条昭実を指名したのだ。
さて、その理由だが。
二条昭実は、上述のように織田信長の娘婿になり、当然のことながら、貴族院内では親労農党の領袖の一人と言っても良い立場にある。
そして、貴族院議員である以上、労農党の派閥争いとは無縁の立場にもなる。
一旦、労農党内の紛争を棚上げして挙党一致の集団指導体制で党を運営しようとするのに、二条首相というのは無難な落としどころといえたからだ。
そして、閨閥から友党の中国保守党も二条昭実首相には同意した。
(言うまでも無いことだが、小早川道平の義理の甥に二条昭実はなる)
又、伊達政宗らの労農党の議員の殆ども、こういった背景から二条首相に賛同したのだ。
ご感想等をお待ちしています。




