第63章―12
カリフォルニアに向かう航空機の中で、一応は日本の領土であるカリフォルニアに帰ることができるということから気を緩めて、離陸直後に寝入ってしまった妹の上里美子の寝顔を見ながら、上里愛は色々と考えざるを得なかった。
愛自身が自覚していることだが、愛は実は自分の身の危険について感覚が極めて鈍い。
養母の上里理子に何度か指摘されていて、愛自身もそうなのだろう、と考えることがあるが、愛は自分の人生を実は余生と考えているところがある。
それこそマンダ教徒として夫を始めとする家族として暮らしていたところを、イスラム教スンニ派の過激派集団に襲われて、自分以外の夫や両親等の家族を、全て自分の目の前で殺されたのだ。
夫の機転で強姦被害等に遭うことなく自分は生き延びられたが、それはイスラム教スンニ派への改宗を強制されて、カリフに奴隷として献上されるという代償を払った結果だった。
だから、堕ちるところまで堕ちた以上、家族の下に早く逝きたいと愛は考えていた。
そして、カリフのハーレムで奴隷奉公を強いられるよりは、と自分なりに考えた行動の結果、愛は上里清にカリフからの奴隷として下賜されることになり、更に上里理子の勧めから清の愛妾になった。
そして、上里美子を清との間に産んだ。
更には、上里清夫妻にこれまでの自らの人生を明かした結果、愛は理子の養女になって、日本国籍を取得して、娘の美子の義理の姉になった。
尚、その際に清との愛人関係を愛は解消していて、今では清を義父ともしている。
更にイスラム教スンニ派を棄教して、マンダ教徒に愛は戻ってもいる。
だが、愛はマンダ教徒に戻ったとはいえ、今の北米共和国で急速に信徒を増やしている新マンダ教とは一線を画している。
新マンダ教は、愛の目からすれば異端としか言いようが無かったからだ。
例えば、全ての川が天界に通じている等と、新マンダ教は説いているが、愛にしてみれば、最初にマンダ教徒だった頃には、そんな教え等は全く見聞きしていなかった教えだったのだ。
だから、そんな教えを説く新マンダ教に帰依するつもりは、愛は全く無かった。
とはいえ、そんな愛の内心を周囲が完全に理解してくれる訳が無い。
熱烈なイスラム教スンニ派信徒にしてみれば、イスラム教スンニ派を棄教した愛を殺すのは正義としか言いようが無かった。
又、新マンダ教徒にしても、自らの信仰を異端と見なす愛は殺すに値する人物だった。
だから、武田信光大統領は、念のために二人も護衛を上里姉妹に付けたのだ。
特に殺害予告が為されている訳では無いが、こういった背景事情があっては、上里愛を殺そうとする人物が現れても全くおかしくなかったからである。
愛は改めて自分の身の安全を周囲の人々が気を配ってくれることに感謝して、カリフォルニアに向かうことになった。
さて、そうこうしている内に、旅客機はカリフォルニアに到着して、上里愛は妹の美子を起こして、松平信康夫妻らの下を訪ねることになった。
ここでも、それなりの警護、具体的には警官2人の護衛が付いての行動となった。
「よくぞ来られました」
松平信康は上機嫌で、上里姉妹を出迎えた。
又、その周囲には信康の祖母の於大や母の瀬名、妻の徳子といった面々までも揃っていた。
「本当に警護の方も派遣していただき、ありがとうございます」
愛は如才なくやり取りをしたが、その一方で於大の姿に気づいた。
どこまで響くか、やれるだけやってみよう。
そう考えて、愛は於大に話を振った。
「新鮮なワカメを食べたくはありませんか」
「ワカメですか。生まれ故郷の名産ですね。食べたいと思わない訳がありません」
愛の問いに於大は即答した。
脈はある、愛は考えた。
ここでも幾つか余談を。
北米共和国内で広まっているマンダ教が、新マンダ教と呼ばれているのは、この世界なりの事情があります。
史実というか、現実世界のマンダ教とは、この世界の北米共和国内で広まっているマンダ教は教義において差異が生じており、それこそ上里愛にしてみれば異端の教えに奔った、と言いたい代物になっていることから、新マンダ教と呼称しています。
この辺りを細かく描けば、それこそ単行本が書けるだけの長さになるので省略しますが、端的に言えば、天界の水はヨルダン川とチグリス・ユーフラテス川に注ぐと説くのが本来のマンダ教であり、天界の水は全ての川に注ぐと説くのが新マンダ教です。
ともかくそういった差異を示す為に、新マンダ教と呼称しています。
それから、ワカメについてですが、戦国時代の頃には既に三河はワカメの名産地として日本国内、具体的には京においても知られる存在だったとか。
こうしたことから、於大と上里愛のやり取りが生じることになります。
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