第62章―23
ちょっと説明的な話になります。
日本や北米共和国から人や物を届けるにしても、実は一騒動では済まなかったのです。
さて、現実問題として、モスクワに対する救援活動を行うのも、実はそれこそ泥縄も良い所の作業をローマ帝国はすることになった。
何故かと言うと、世界から緊急の救援活動を行うとなると、出来る限りは空輸を行おうということになるが、当然のことながら、ローマ帝国軍が占領したばかりのモスクワに空港等が本来はある訳が無かったからだ。
(そもそも論になりかねないが、当時のモスクワ大公国が航空機を保有していない以上、モスクワ大公国が空港を建設する必要等は皆無だったのだ)
こうしたことから、念のためレベルでモスクワに対するローマ帝国軍の攻囲が始まった段階で、イザという場合にモスクワ及びその近郊での航空機運用が可能なように、いわゆる野戦飛行場の建設が行われるようになっていて、実際にモスクワ市が降伏を決断した時点で、双発の中型爆撃機が何とか可能な程度の野戦飛行場の建設が完了していたが。
モスクワ市の惨状が判明するにつれて、そんな野戦飛行場ではとても間に合わないとして、健康なモスクワ市民までも動員して、大型の輸送機、爆撃機が運用可能な空港をモスクワ近郊において別途、急造する事態が引き起こされた。
流石にこの当時となると、野戦飛行場の急造技術のノウハウが実地でローマ帝国軍にも整備はされていたが、基本的に最大でレシプロの双発爆撃機程度の運用が想定されての代物である。
大型の四発の爆撃機や輸送機の運用が可能な飛行場を急造するノウハウ等が、ローマ帝国にある訳がなく、それこそ日本や北米共和国の指導等を受けて、最終的には飛行場を急造することになった。
そんな大混乱があった末に、10月末にようやく大型の四発の爆撃機や輸送機が運用可能な飛行場が仮完成した(横風用の滑走路等の整備による正式な完成には、更に1月余りが掛った)。
こうしたことから、モスクワ救援のための人員や物資は、キエフまでは何とか大型輸送機で日本や北米共和国から運ばれたが、キエフからモスクワへとなると、キエフで中型輸送機に積み替えた上でモスクワに向かうという事態が10月末まで続くことになった。
この積み替えによる様々な時間のロス等は極めて痛い事態であり、後知恵からすれば何とかならなかったのか、という批判を甘受せねばならないことだったが。
現実問題として、この時のモスクワ市民等にしてみれば、現実に起きたことだけでも驚異的な出来事としか言いようが無かった。
何しろ自分達からしてみれば、地球の反対側と言える日本や北米共和国から人や物が、航空機によって日単位で届くのだ。
日本や北米共和国となると、モスクワ市民にしてみれば「皇軍来訪」以前ならば、それこそ年単位を覚悟して帆船で赴くところだったのであり、汽船が普及している現在でさえ月単位で赴くところというイメージが強かった。
それが「皇軍知識」によって、1570年代初めに航空機が量産化されるようになってから30年も経たない内に、それこそ大西洋横断可能な大型輸送機が量産化される時代が到来しており、それを活用して日本や北米共和国は、日単位で大量の人や物を送り込んでくるのだ。
(流石に太平洋となると、この1600年当時は増槽等を活用すれば飛べなくはないが、リスクが高すぎるとして、アンカレッジやハワイ等で給油した上で太平洋を横断するのが通例だった)
マリナ・ムニシュフヴナも、この現実に圧倒されるしかなかった。
スモレンスクに赴いて、日本がもたらした様々な技術をローマ帝国が活用しているのを、実地に見聞してきていたが。
モスクワ市民を救うために日本や北米共和国から日単位で大量の救援の人や物が届くこと等、想像できないことだったのだ。
ご感想等をお待ちしています。




