第62章―22
1600年9月下旬から冬に掛けてのモスクワだが、一時は酷い惨状を呈していた。
少しでも将来の疫病患者を減らすために、健康な住民は様々な縁を頼ってモスクワから退去させるべきだと叫ぶ医療関係者もいれば、そんなことをすればモスクワ以外の疫病が蔓延するとして反論する医療関係者もいる等、疫病対策一つとっても甲論乙駁の激論が交わされるような現状だった。
とはいえ、モスクワに人が溢れかえっているのが、衛生状況を悪化させる等の事態を引き起こし、疫病対策を困難にしているのは間違いない事だったので、健康を維持している住民で、モスクワ以外に縁がある者に対しては、一時的な滞在所で暫く様子を確認した上でモスクワからの退去が積極的に進められることになった。
マリナ・ムニシュフヴナは、そうしたことからモスクワから退去していく住民を暫くの間、ほぼ連日に亘って見送ることになった。
それこそ日本や北米共和国から様々な物資が、住民に対する援助のために届いている。
そして、その物資の一部がモスクワから去っていく住民に渡されている。
故郷に帰り、暫くは食べられるようにと言うことから、約1月分程の食料等が提供されては、モスクワから住民が去っていく。
その前に、念のためにと言うことで殺虫剤が去っていく住民に浴びせられる事態が起きている。
確かに、住民がたどり着いた故郷で更に疫病が発生する等、悪夢としか言いようが無いだろう。
その一方で、発疹チフスや赤痢、腸チフス等の疫病に感染した患者への治療も、文字通りに世界中から駆けつけたといえる医師団が懸命に行う事態が起きていた。
本来ならば点滴を行うべきところが、皮肉にも「皇軍」によって知識のみが先行したために史実よりも早期に効果が認められた経口補水液が、モスクワにおいては主に活躍する事態が起きていた。
それくらいこの当時のモスクワは酷い状況に置かれていたのだ。
そして、既述だが、まだ開発されたばかりと言える抗生物質が患者の治療に、ほぼ治験も兼ねて投与されるという、ある意味では酷い事態が起きた。
(本来から言えば、きちんと治験を行って抗生物質の効果を確認した上で投与されるべきところが、そんなことをしては助かる人も助からなくなるという理屈から、治験名目で患者に投与されたのだ)
とはいえ、その効果は絶大なものがあった。
それこそ疫病にり患したら、ピーク時には半分以上が死んでいったといっても過言では無いのが、開城前のモスクワの現実だったが、経口補水液や抗生物質等の効果によって、徐々にだが疫病にり患した者の97パーセントが助かるようになっていったのだ。
更にはモスクワの住民が減ることによって、衛生状況が結果的に改善するようになったし、又、殺虫剤散布等は衛生状況を更に改善させることになり、モスクワ市の疫病患者を激減させていった。
マリナ・ムニシュフヴナは、こういった複合的な要素、効果によって、モスクワ市民の状況が改善するのを結果的に見届けることになった。
そして、このことはマリナ・ムニシュフヴナに強い感銘を与えた。
これまでの人生から、マリナ・ムニシュフヴナにしても、疫病の原因等について知らなかった訳では無いが、実際に疫病が起こったら、ほぼ対処不能と考えていた。
(実際に従来の欧州の医学では、ほぼ対処不能だった)
しかし、世界から救援が行われたというのもあるが(というか航空機等の発達無くして、世界からの救援は困難だったが)、一時は深刻な状況に置かれたモスクワは疫病を封じ込めて、打倒することに成功することができた。
本当にこんなことが起きて疫病に対処できるとは、とマリナ・ムニシュフヴナは蒙を開かれた。
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