第62章―16
ボリス・ゴドゥノフは、モスクワに籠城している主な貴族や上級聖職者を集めて、自らの現状認識を話して彼らの説得を始めることにした。
正直に言って、ボリス・ゴドゥノフは娘のクセニヤ・ゴドゥノヴァの薨去により、急速にローマ帝国との戦争を続ける気力を失っており、更にこれ以上の抗戦を続けても、自らももうすぐ疫病で死ぬだけだ、という投げやりな想いさえも浮かぶようになっていたのだ。
更にボリス・ゴドゥノフの想いを促す事態もあった。
食料等は充分にあるとはいえ、モスクワではそれこそ複数の疫病の発生によって、大量の病死者が出るようになっており、人心が荒廃しつつあった。
少しでも自分が不当な扱いを受けたと考えれば、それを周囲にぶつけて抗議等をする人が増える一方となっており、それこそこのまま行けば大規模な暴動を兵や市民が起こしてもおかしくない状況だ、と多くの貴族や上級聖職者までも懸念するようになっていたのだ。
主な貴族や上級聖職者を集めた会議が始まった。
「この際、モスクワを開城して、ローマ帝国軍に投降しようと自分は考える。皆の考えを聞きたい」
ボリス・ゴドゥノフが開口一番に言うと、すぐに反論の声が挙がった。
「何を言われる。未だにモスクワの城壁は崩れておらぬ。食料もあと半年は優に持つ。モスクワを開城する等、正気の沙汰ではないわ」
ヴァシーリー・シュイスキーの言葉だった。
ボリス・ゴドゥノフは冷えた想いしか抱けなかった。
自らの側近の調査によれば、ヴァシーリー・シュイスキーの身辺を探る限り、ローマ帝国がモスクワ大公国への侵攻作戦を発動する直前に、自分だけでも生き延びようとローマ帝国に彼が通謀しようとしたのはほぼ間違いないと断定されている。
だが、今になって寝返ろうとは笑止、とエウドキヤに冷笑されてしまったことから、ヴァシーリー・シュイスキーは、自分の傍に張り付いて少しでも生き延びようとしているようだ。
「そこまで言われるのなら、ローマ帝国軍の攻囲を破る手段があるのか。攻囲が破れないのなら、このままでは、兵も民も疫病で死ぬ者が増える一方、更に兵や民の心が荒んで、自分や家族の首を差し出すことで、兵や民は助かろうと考えるようになるのでは」
ボリス・ゴドゥノフが、ヴァシーリー・シュイスキーに皮肉を言うと、それ以上の言葉がヴァシーリー・シュイスキーからは出てこなかった。
実際にモスクワ市内の兵や民に漂う気配がその様になりつつある。
ローマ帝国軍が虐殺しているというのは、貴族や上級聖職者、及び自らに武器を向けた貴族の子女のみなのだ。
それならば、貴族や上級聖職者の首を差し出せば自分達は助かる、という考えを荒んだ兵や民が徐々に抱くようになるのは当然のことと言えた。
「今ならば貴族の家族は武器を取っていないと誤魔化して、家族は助命できるのではないか。それが嫌ならば、今すぐモスクワから逃亡されよ。儂は引き止めぬ」
ボリス・ゴドゥノフが投げやりな言葉を発すると、ヴァシーリー・シュイスキーとそれに同調する少数の者が会議場から去っていった。
残った者は何も言わない。
残った皆が分かっていて、どうにも口に出せなかったのだ。
家族諸共に殺されるか、自らの命を差し出すことで家族を救うか、その究極の二択を迫られた。
自らの心の何かを保つとなると、自らの命を捨てるしかないのだ。
「それでは、モスクワを開城したい(要するに降伏する)旨の使者を、明朝にローマ帝国軍に今から送る。逃亡したい者は今夜中にされよ。今夜は月の無い良い夜のようだ」
ボリス・ゴドゥノフは、更に付け加えて言った後で内心で呟いた。
何とか妻と息子は助命したいが、その願いは叶うだろうか。
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尚、具体的な日付を挙げてはいませんが、私が暦を調べる限り、9月上旬のこの頃は新月に近く、闇に紛れての逃亡を図るには絶好の月齢でした。




