第62章―13
ともかくこういった悲劇の連鎖は、苛烈極まりない事態を招来した。
モスクワ大公国の庶民の多くが、ローマ帝国軍の行動に恐怖を覚える一方、その矛先が貴族や上級聖職者に向けられていることから、自分達には無関係だとして、出来る限りはローマ帝国とモスクワ大公国の戦争から少しでも関わろうとしないように努めたが。
全ての庶民がそう考えたかと言うと、そんなことは無かったからだ。
それにモスクワ大公国はそれなり以上の体制を築いて統治を行ってきたのであり、その結果として庶民の中にも貴族や上級聖職者のために戦おうとする者がそれなりどころではなくいたのだ。
例えば、ニジニ・ノヴゴロドの肉屋クジマー・ミーニンは、それこそ身銭を切って、
「ローマ帝国の不当な侵略から祖国モスクワ大公国を守ろう」
と呼号して義勇軍編制に命がある限り尽くし続け、モスクワ大公国が生んだ最後の名将と後に謳われるドミートリー・ポジャールスキー公が義勇軍を率いて、ローマ帝国に対する抗戦を続けるのに大いなる援助を行うという事態が起きた。
(尚、クジマー・ミーニンは後にニジニ・ノヴゴロドをローマ帝国軍が占領した際、ローマ帝国軍の虜囚となって叛逆罪に問われてギロチンによる斬首刑となり、遺体は火葬にされて遺灰は川に流された。
その最期の際にまで、
「庶民の自分が斬首刑(この当時、庶民は絞首刑が当然で、斬首刑は貴族や上級聖職者に対して行われる名誉ある死刑とされていた)とは名誉なことだ」
と豪胆にも言った後で、ギロチンに仰向けになって刃が自分に食い込むのを見届けて亡くなった。
尚、叛逆罪を斬首刑と定めたのは、女帝エウドキヤの勅令によるものであり、叛逆者からすればせめてもの名誉を保つ死刑といえた)
又、モスクワ大公国の貴族の女性や子ども(といっても大抵が10代にはなっていたが)の多くも、積極的に銃を取る等してローマ帝国軍と戦う事態となっていた。
彼、彼女らにしてみれば、どうせローマ帝国に捕まった後、処刑されて火葬にされるくらいならば、戦場で戦って死んで土葬される方が遥かにマシと言う考えに達したからだ。
そして、ローマ帝国軍としても彼、彼女らが銃等を向けてくる以上は戦わざるを得ない。
更に言えば、キリスト教徒として、彼、彼女らの真情を何となく察したのもあった。
そのために傷ついて捕虜となった女性や子どもらの多くが安楽死を望めば、それに応じて死を与えて遺体を土葬にすることが多発した。
勿論、戦場における土葬である以上、ローマ帝国軍にしても、それこそスコップで穴を掘って、そこに遺体を入れて目印となる簡素な十字架を立てるのが精一杯で、更に言えば十字架には名前を刻むこともなく、無名兵士の墓とするのがやっとだった。
だが、モスクワ大公国の貴族、女性や子どもらに至るまでが、死後の天国における復活を望んで、遺体をそうすることを望んだ。
ローマ帝国軍によって一旦は助命されても、何れは処刑されて火葬にされるだろう。
それくらいならば、まだ無名の墓に葬られた方が安らかに死ねるという想いに彼、彼女らの多くが捉われたのだ。
ともかくそうしたことから、モスクワ大公国の貴族や上級聖職者は、ローマ帝国軍に対して懸命の抵抗を行い、モスクワへのローマ帝国軍の進撃が遅々として進まない事態を引き起こした。
更に言えば、既述だがモスクワ大公国内の領土、主に農地が荒廃しているという現実がある。
そのためにローマ帝国軍は工兵等を道路整備に投じて、後方から様々な物資、食料等を輸送して、その一部を周辺住民に提供することまでせねばならないという状況にもなった。
こうしたことから、モスクワ攻撃は7月半ばになった。
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