第61章―15
そんな諸々のことが裏では行われた末に、結果的には全く表面化しないままで、偽ドミトリー皇子はポーランド国外において、イエズス会の修道士になって聖職者の路を歩むことになり。
偽ドミトリー皇子を擁立して、モスクワ大公にしようというポーランド=リトアニア共和国内の陰謀は無かったことになった。
そして、1599年の秋に正式にローマ帝国から皇太子妃として、ポーランド=リトアニア共和国の大貴族イェジ・ムニショフの娘であるマリナ・ムニシュフヴナを、東方正教に改宗した上で迎えたいという申し入れが行われ、イェジ・ムニショフは娘の意向を確認した上でそれを快諾し、マリナ・ムニシュフヴナが14歳になる1602年に結婚するという茶番劇が行われることになった。
尚、この件については、(表面上は)ポーランド=リトアニア共和国の国王ジグムント3世も積極的に歓迎する動きを示した。
何故かと言えば、この当時、スウェーデンは完全にルター派プロテスタントが国民の多数派を占める状況に陥っており、熱心なカトリック信徒であるジグムント3世はスウェーデン国王に相応しくない、として一時は即位していたスウェーデン国王を廃位される事態に陥っていたのだ。
こうした状況から、ジグムント3世は対スウェーデン戦争を呼号していたが、それこそウクライナを巡る問題から、ローマ帝国と対立しているという現状がある。
だから、ポーランド=リトアニア共和国内の有力者、要するに貴族のほとんどは対スウェーデン戦争よりも対ローマ帝国戦争を優先すべきだ、と言う主張をしていたのだが。
このローマ帝国皇太子ユスティニアヌス(秀政)からのマリナ・ムニシュフヴナへの婚約申入れ、要するに縁談は、こういったポーランド=リトアニア共和国内の対ローマ帝国戦争が優先されるべきだ、と言う動きに冷水を掛ける結果を引き起こした。
ローマ帝国がこれ以上のポーランド=リトアニア共和国との戦争を望んでいないのならば、ここらで正式に休戦する、要するにウクライナを割譲して講和条約を締結してもよいのではないか、とジグムント3世やそれを支持する面々(その中には実はイェジ・ムニショフらを始めとするかつての対モスクワ大公国強硬派の面々の多くが加わっていた。彼らにしてみれば、色々な後ろめたさを誤魔化すためにもローマ帝国との宥和を訴えることになったのだ)は叫ぶことになり、ポーランド=リトアニア共和国内部では大論争が起きたが、最終的にはローマ帝国との正式な講和条約締結へとポーランド=リトアニア共和国は舵を切ることになった。
(尚、正式な講和条約締結には、1602年頃まで掛かることにはなった)
更に言えば、ポーランド=リトアニア共和国は、武器の提供等の対スウェーデン戦争への協力をローマ帝国に求めることになったが、ローマ帝国側は森成利を基本的な窓口として、その要求を断った。
ローマ帝国としては対モスクワ大公国包囲網構築を考えており、下手にポーランド=リトアニア共和国に肩入れして、スウェーデンとモスクワ大公国が協力することになるのを警戒したのだ。
そして、このためもあって、ローマ帝国とポーランド=リトアニア共和国の講和条約締結には時間が掛かることになった。
尚、スウェーデンとしては、このローマ帝国の動きを歓迎した。
プロテスタントの国として東方正教の守護者といえるローマ帝国と手を組むのは論外であり、かといって敵対する訳にもいかない以上、ローマ帝国が中立を保つのが最善だったからだ。
かくして1600年の春を期してのモスクワ大公国へのローマ帝国軍の進撃準備が、国際的にも調えられて、実際に発動されることになった。
これで第61章を終えて、次から新章になります。
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