第61章―2
それはともかく、1598年にフョードル1世は崩御して、エウドキヤ以外にモスクワ大公を継ぐのに相応しい人物はいなくなった筈なのだが。
モスクワ大公国の全国会議(この当時のモスクワ大公国が持っていた身分制議会、フランスの三部会のような存在)は、エウドキヤは僭称者(要するに偽者)だとして、フョードル1世の次にモスクワ大公として摂政のボリス・ゴドゥノフを指名し、ボリス・ゴドゥノフがモスクワ大公に1598年に即位した。
そうなった原因だが、(既述のことだが)モスクワ大公国の公式見解としては、1571年に起きたいわゆる「モスクワ大虐殺」の際、エウドキヤはオスマン帝国軍(実際にはエジプト軍)の手に掛かって薨去したということになっていたことである。
それこそモスクワ大公国にしてみれば、「モスクワ大虐殺」の際にエウドキヤが結果的にエジプトに亡命していて、エジプトから事実上は建国された「ローマ帝国」の皇帝にエウドキヤが即位する等は、30年近く前には思いも寄らないことで、オスマン帝国軍の残虐性を強調するためもあって、皇女エウドキヤは、「モスクワ大虐殺」の際にオスマン帝国軍の手に掛かって薨去したと公表したのだ。
そして、それをやったのはイヴァン雷帝だった。
何しろ自分が外征中だったとはいえ、留守の間に首都モスクワがオスマン帝国軍に荒らされて、更に娘のエウドキヤ(及びアンナ)が誘拐された等、恥の上塗りである。
それに万が一ということ(実際に起きているが、アンナやエウドキヤこそが正統なモスクワ大公だとして外国が介入してくること)を警戒して、娘のエウドキヤ(及びアンナ)は薨去したと公表したのだ。
それが1598年のモスクワ大公国の全国会議において、結果的に影響を与えた。
1571年のイヴァン雷帝の主張を否定して、エウドキヤを新たなモスクワ大公として迎え入れるか、それともイヴァン雷帝の主張を肯定して、ボリス・ゴドゥノフをモスクワ大公にするか。
全国会議の結論は結果的にこの二者択一になったが、全国会議に集った者の多くがイヴァン雷帝の支持者として生きてきた者だった。
更にエウドキヤは日系人と結婚しているし、ローマ帝国の皇帝という立場にもある外国人に今はなっていると言っても良い。
それに対して、ボリス・ゴドゥノフはそれなりにフョードル1世の摂政としてモスクワ大公国を統治してきた実績があり、対外的にはスウェーデンとの戦争を有利な条件で終わらせてフィンランド湾沿岸地域を獲得、又、シビル・ハン国を併合するという成果も挙げていた。
(だが、その一方で、国内情勢は悪化していた。
ほぼ連年のように凶作が続いており、飢きんによる餓死者が国内で毎年多数出る有様だった。
更に相次ぐ戦争は、戦費確保のための増税が強行される事態を招いてもいた)
こうした背景から、モスクワ大公国の全国会議は、ボリス・ゴドゥノフを最終的にモスクワ大公に選出することになった。
更にエウドキヤは僭称者(偽者)であると声明を出すことにもなった。
そして、このことはエウドキヤに最終的解決を決意させることになった。
この声明を受け取ったエウドキヤは、皇配の浅井亮政に次のように静かに告げた。
「全国会議において私を僭称者だとした出席者は、私の血統を否認しました。でも、彼らは私がイヴァン雷帝の真の娘であることを、後で思い知ることになるでしょう」
「分かった。だが、それは出席者だけに止めてくれ」
「そうですね。でも出席者に味方する者も同罪です」
二人はそうやり取りを続けた。
浅井亮政は妻の内心を推測するに止めた。
これは妻は完全に怒っている。
後でモスクワに大量の血の雨が降るだろう。
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