プロローグ―2
少し余談になりますが、後々の事があるのでここで描きました。
尚、史実でもほぼ同じことを久我父子はやらかしています。
とはいえ、そういった夫婦関係に捉われない自由な男女関係にも、ある程度は節度というか限度があるのは当然の話でもあった。
それを上里美子は昨年の大騒動で痛感する羽目になった。
昨年、1599年に美子にしてみれば同級生になる久我通前の父になる久我敦通と兄の久我通世が、一人の女性を取り合ったのだが。
その女性というのが問題だった。
今上(後陽成天皇)陛下の勾当内侍だったのだ。
それこそ「皇軍来訪」以前から宮中における男女関係のびん乱は目に余るものがあり、しばしば節度を持つように宮中女官は指導される有様だった。
上里美子の義理の伯母になる織田美子が尚侍として目を光らせていた頃は、美子の風聞も功を奏して宮中女官の男女関係はかなり収まっていたのだが、久我俊子が尚侍になったことから、元の木阿弥とまではいわないが、又、かなり緩みつつあったのだ。
そして、尚侍の久我俊子と久我敦通は兄妹であり、敦通と通世はその縁で宮中に出入りする内に父子で勾当内侍を見初めて関係を持とうとしたのだ。
(尚、父子はお互いに今上陛下に告発されるまで、まさか同じ女性を結果的に父子で取り合っているとは思わなかったらしい)
だが、勾当内侍は内侍筆頭と言える立場にある宮中女官であり、それこそ宮中女官の風紀取締りを実務面で行う立場にある。
そういった宮中女官と男女関係を持とうとは、しかも父子でやらかすとは、と今上陛下の逆鱗に久我敦通と通世は触れてしまった。
更にこのとばっちりは、当然のことながら久我俊子にも及ぶことになる。
結局、この大騒動はそれこそ摂家や他の清華家を巻き込んだ協議の末に、最終的な処分としては久我家の後嗣は通前とし、敦通は隠居して、通世は廃嫡する。
更に久我敦通と通世は京都から追放処分とする。
久我俊子はこの件に直に関与していなかったが、身内が不祥事を起こしたこと、更に宮中女官の監督責任を取る必要があることから、尚侍を辞職して、西園寺公朝の娘になる西園寺氏(尚、三条西公国の妻、三条公広の実母でもある)が新たに尚侍になるということで落着したのだ。
(尚、余談ながら、久我俊子の後任の新尚侍には、既婚の清華家の女性ということで、真田昌幸の妻で菊亭公彦の娘も候補として挙がったのだが、既に真田昌幸が陸軍参謀総長に就任していたことから、織田美子が、
「軍部が宮中を抑えようとしていると誤解を招きかねない」
と鶴の一声を発したことで、立ち消えになってしまったという噂が流れた。
尚、真田昌幸自身は、この話については心外な話にも程がある、とこぼしたそうだが、どの意味で心外な話なのか、と周囲は真田昌幸の評判も相まって憶測したそうである)
だが、この大騒動は久我通前にしてみれば、思わぬ負担になった。
いわゆる妾の子で気楽な人生を送って、どこかの公家の婿養子として人生を送れる筈が、いきなり久我家の次期当主になることになったのだ。
何しろ久我通世は正妻の子であり、健康そのものだったので、自分のところに当主というお鉢が回ってくる等はアリエナイと自分や親兄弟を始めとする周囲全員がそう考えていたのにでもあった。
それこそ大騒動が起きてから処分が決まるまで、又、処分が決まってからも暫くの間、通前が暗い顔をして悩んでいたのを、美子は覚えている。
そして、追放処分と決まった後も、どこで久我父子が暮らしていくのか、久我家及びそれに縁の深い公家の面々が話し合った末、日本本国から出た方が今上陛下の怒りが早く収まるだろう、との意見が強まり、最終的に父子は北米共和国に赴くことになった。
それを聞いた徳川完子は、通前の気を楽にしようと考え、自らの両親に紹介状を書きもしたのだ。
ご感想等をお待ちしています。
尚、感想欄を読んで説明を省き過ぎていたのに気づきました。
徳川完子ですが、実母の小督の関係から織田信忠(事実上は織田美子)の下に預けられています、
そして、織田美子と久我家は既述ですがそれなり以上の縁があるのです。
そうしたことから、織田美子の示唆を受けて、徳川完子は久我通前のために動いたのです。
本当に説明を省きすぎていて、後出しじゃんけんになり、すみません。




