第57章―7
さて、真田家の跡取り問題とは何のことか、ここで説明しておくと。
真田昌幸大佐の実父、真田幸綱には(この世界では)4人の男児がいた。
具体名を挙げるならば、長男の信綱、次男の昌輝、三男の昌幸、四男の信尹の4人である。
そして、本来ならば真田本家を継ぐのは、長男の信綱だった。
だが、信綱と昌輝は共に(この世界の「皇軍来訪」によって起きた)北米大陸開拓に、武田義信の下で働きたいと望んだことから、父の幸綱に自らを廃嫡させて昌幸を真田本家の跡取りにさせた。
そして、真田信綱を当主とする北米真田家を分家として成立させたのだ。
とはいえ、このことは昌幸に、本来から言えば自分は真田本家を継ぐ人間では無かったという想いをさせる出来事となり、後々まで引き連れられる物事になった。
そういったことから、せめてもの詫びという訳では無いが、昌幸は自分の長男の信之の妻に信綱の娘(信之からすれば従姉妹)を結婚させて、信綱の孫を何れは真田家の跡取りにと漠然と考えていた。
ところが、言うまでもないことだが、日本の北米植民地は本国との間に、北米独立戦争を引き起こす事態にまで至ってしまい、それによって日本から北米植民地は分離独立を果たし、北米共和国を成立させるという事態が引き起こされたのだ。
そして、真田信綱や昌輝はこの独立戦争に際して北米植民地側に与したことから、北米真田家は北米共和国側の国民となった。
その一方で、真田昌幸は日本本国に忠誠を尽くしたことから、真田家は二つに完全に分かれて、日本本国と北米共和国でそれぞれが存続することになった。
とはいえ、真田家の場合は、親子兄弟がそれぞれ政府の最上層部に近い存在にあった上里家や徳川(松平)家に比べれば、相対的にマシといえてお互いにある程度は割り切れたのが幸いで、後々までお互いに恨みを遺すことは無かった。
そして、10年程が経った1590年に、それなりにほとぼりが冷めたと考えた昌幸は、改めて信之の妻に、兄の娘の清子を迎えようと考えて、自分や妻子と共に北米の信綱の下に赴いた。
(尚、内々にだが、昌幸にしてもこの縁談が問題にならないように、陸軍内でそれなりに根回しを予めしており、信綱の娘と自らの息子の結婚は問題ないとの陸相の内意を取り付けることに成功していた)
そして、信綱やその妻子と昌幸やその妻子は、改めてお互いに顔を合わせて、信之と清子の縁談が進めば万々歳になるところだったのだが、そこに思わぬ横槍が入ってしまった。
真田昌幸が北米を訪ねてくると聞いて、本多忠勝が昌幸に会いに来たのだ。
更に忠勝は愛娘の稲子を同伴していた。
この稲子というのが、ある意味では曲者だった。
稲子の母はアパッチ族の出身で猛女と謳われた女だった。
そして、アパッチ族は徳川(松平)家を始めとする日本の植民者に対する襲撃を繰り返した末に、日本に屈服して、その植民地の統治下におかれ、更には北米共和国の住民になっていった。
その流れの中で、稲子の母は徳川家の軍勢(?)の虜囚となり、自らを捕虜とした忠勝の愛妾になって稲子を産んだのだ。
稲子は両親の血を引いて、猛々しい少女に育った。
そして、自分より強い男ではないと結婚しないと公言し、見合いを何度かしたものの、稲子の目に叶う男がいないまま17歳になっていたのだ。
その稲子が忠勝に付いてきて、これまでの経緯から忠勝と昌幸の会談の場で傍若無人に振舞っていたのを、信之は咎めて稲子を抑え込む事態が起きてしまった。
その一件が、思わぬ方向に転がった。
稲子が信之と結婚したいと言い出し、忠勝にしても稲子の婚活に苦労していたので、昌幸に稲子と信之の結婚を求める事態に至ってしまった。
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(尚、稲子は言うまでもなく史実の小松姫のオマージュで、史実的には嘘らしいですが、信之と小松姫の結婚の経緯に関する逸話がベースにあります。
そして、この世界の小松姫は史実より強い女性として生まれ育っています)




