第56章―9
そんな風に上里清と織田信忠の叔父甥が、業務の合間を縫って勉強をして更に雑談を交わすこともあったが、叔父甥の主な職務は、様々な原材料の調達や人材の確保といった反応兵器の試作を目指した実務について、事務方としての役割を実際に務めていくことだった。
そして、紙の上の研究では、核融合反応を用いた兵器はまだまだ不可能と考えられたことから、まずは核分裂反応を用いた兵器の開発試作を目指すことになった。
そうした過程の中で最初の難関になったのが、ウラン鉱石(尚、世界初の反応兵器開発に日本が用いたのは、自らの植民地である豪州産のウラン鉱石だった)から天然ウランを取り出し、更に核分裂を起こさないウラン238と核分裂を起こすウラン235という同位体を分離して、ウラン235を濃縮する作業(いわゆるウラン濃縮)を、どのように効率的に行うかという問題だった。
この時点で紙の上のウラン濃縮方法は4つ、熱拡散法、ガス拡散法、遠心分離法、電磁分離法と考え出されてはいたが、紙の上ではこの4つの方法のどれが最善なのか、核物理学の科学者の間でも百家争鳴する有様で、実物を作ってやってみるしかないという惨状にあった。
そうはいっても、科学者の間で優勢な主張からやってみるのが道理というもので。
(この世界の)日本では、電磁濃縮法とガス拡散法でやってみることになり、それこそ1年掛かりの大事業となった。
もっともこの頃の技術的には、結果的に正解を選んだと言える。
熱拡散法は少なくとも当時の技術的には無理がある方法だった。
そして、遠心分離法はかなり大規模な機械設備等が必要であると、この時代の技術では考えられており、実物を作るのは極めて困難だった。
(尚、技術の進歩もあり、現代ではこの4つの中では、遠心分離法がウラン濃縮については主流になっているようです)
そういった事情から、まずは少しでもウラン濃縮を容易にする必要等から、六フッ化ウランを製造して、それから電磁濃縮法とガス拡散法を用いてウラン濃縮を行うことになったが。
六フッ化ウラン自体が、極めて腐食性の強い物質であり、それこそ濃縮器を腐食しては、その補修に追われる事態を多発させた。
その補修費用だけで、あらかじめ想定されていた反応兵器の予備費の大半を支出する有様で、それ以外にも想定外の費用が多発したことから、まずは軍関係の経理担当者が大蔵省に頭を下げて、最終的には島津義弘陸相が木下小一郎首相に頭を下げて、政府の予備費を反応兵器の研究開発に投じる羽目になる程だった。
(その際の小話として、後に会計検査院が、本当に濃縮器には銅が使われているのか、実は銀が使われているのではないか、と疑う程の費用が結果的にかかる程だった)
そんな経費面での苦労はあったが、何とかウラン濃縮は徐々に成功していき、反応兵器の製造開発に必要な濃縮ウラン確保の目途は、1年余りの歳月によって、何とか立つことになった。
そして、反応兵器の研究開発となると、濃縮ウランの製造だけでは済まない。
プルトニウムの生成等の為に原子炉が製造され、他にも重水を製造する必要がある等、本当に色々なモノが必要になってくる。
そういった製造設備も調えざるを得ない。
そうなってくると広大な土地も必要不可欠ということになる。
そうなってくると本州内では確保が難しく、最終的には北海道の大地に反応兵器の製造工場等が集中して建設される事態となった。
(万が一の事故が起きた場合に、人的被害が局限できるとも考えられたのもあった。
この頃の北海道は日本の植民地になってはいたが、日本人は余り移住してきておらず、住民はアイヌ系が圧倒的多数という現実があった)
ご感想等をお待ちしています。




