第五十四章<私の毒舌な婚約者5>
くるり。
アレンの方を振り向き、リリアーネ嬢は、そんな言葉を口にした。
中庭がかなり暗いためか、彼女は、自分に声を掛けてきた男がアレンだとは気づいていないようだった。
そんな彼女の問いかけに、まさか気になって思わず追いかけていたなどと告白することもできず。
「お前こそ、どうかしたのか」
そんな疑問で、返してしまった。
彼女が涙する理由など、婚約破棄の場に居合わせたアレンならば知らない筈がないというのに。
それでも、今さら後に引くこともできず、先ほどよりもやや低く、小さな声で続きを呟いた。
「そんなに泣いて」
――え?
音にならない声が、アレンの意識を通り過ぎた。
無意識にテレパシーを発動していたらしいが、心を読むというより、彼女の声がアレンの身体の中を貫いたような、初めての感覚だった。
……否。どこかで、感じたことがある。
どこで、だったか……?
頭の片隅で記憶を手繰り寄せながらも、彼女の思考を読むことに集中する。
――私は、泣いているの?
この様子だと、未だに泣いていることに気づいていなかったようだ。
――……涙を流したのは、十二歳のあの日以来だ。
ひゅっ。
思わず、そんな音を立てて、息を吸い込んだ。
先ほど、あれだけの不満をつらつらと述べていたことから、かなり長い時間、彼女は耐え続けていたのだとはわかっていた。
だが、まさか十二歳から今まで、一滴の涙も零すことなく耐え続けていたとは、流石に予想していなかった。――否、できなかった。
それは、痛みを耐え続け、溜め込むにはあまりに長すぎる時間だから。
心が壊れかねない状況だっただろう。
それでも耐え続けたリリアーネ嬢に、アレンは心から敬意を表した。
そんな彼女が、久しぶりに自分の感情を吐き出すことができたのだ。
他人の身ではあるが、そのことに心から安堵する。
ちらりと彼女に視線を向ければ、未だに混乱しているらしい、リリアーネ嬢の動揺した姿があった。
オロオロと所在なさげに瞳を揺らす彼女に、そっとハンカチを手渡す。
彼女は少し逡巡した様子を見せたが、アレンのハンカチをそっと受け取り、目元を軽く押さえる。
そして、ハンカチを淀みない動作でたたみ直すと、小さく礼を言いながら、アレンへと返した。
その一拍後、アレンは少し躊躇いながらも、リリアーネ嬢へと言葉を投げかけた。
「あまりため込みすぎるな」
不満や痛みという類のものは、生きている限りどうしたって蓄積され続けるもの。
それを上手く発散できるかできないかで、生きやすさというものは違ってくる。
彼女の場合は、婚約者が最悪だったことに加えて、自身の不満や痛みを吐き出すことが、自分、ひいては家族や婚約者の弱みとなることや、生来の性格などの要因から、その感情を押さえ続けていたのだろう。
無意識ではなく、意図的に。
そういった思いを込めて、アレンはもう一言だけ口にした。
「いずれは爆発する」
とてもわかりずらい言葉にしてしまったが、リリアーネ嬢は的確にアレンの意図を把握してくれたらしく、「ありがとうございます」と、礼を述べてきた。
その言葉に、「気にするな」とだけ答えて、彼はその場から立ち去ることにする。
最後に一言だけ、一番伝えたかった言葉を、自身の正体を明かすことも兼ねて伝える。
「さっきのお前の言い分は正論だから、あまり気に病むな」
口を開くことなくそれだけを伝えると、アレンは足早に中庭を去った。
そして、混乱状態にあるであろう会場へと足を進める。
――格上の立場として、あの場の、そして第二王子への制裁を下すために。
多分、あと少しでアレン視点が終了します……多分。




