第249話 一瞬遅れて
ビルの5階の扉の鍵を開けて、真っ暗で誰もいないフロアに入る。
電気をつけて、部屋の中に明かりをもたらす。
現在時刻21時前。少し遅めの帰宅だろうか。
だが今日は夕方まで駐車場跡地で特訓した後。銭湯とコインランドリーに行って、コンビニに寄って帰ってきたところ。
まぁこれならこんな時間になるだろう。
とりあえず、コンビニで買って来たものをテーブルに置く。
そして鞄に入っている洗濯したものを片付けに行く。
入海先輩の尾行に失敗してから、数日経った。
だが、堕ち星も現れていない。
一応市民プールがある運動公園周辺に足を運ぶ回数は増やしたままではある。
しかし、本当に何も起きていない。
そのため「やっぱり、入海先輩は普通の人間だった」という声がメンバー内でも主流になっている。
流石に俺も、そろそろ警戒をやめてもいい気がしてきていた。
それにしても……この部屋はトイレとキッチンはあるが、洗濯と風呂がないのが困る。
もうすぐこの部屋に住み始めて1年になるが、いちいちどこかに行かないといけないのは本当に不便だ。
ちゃんとしたアパートを選ぶべきだったか。
……いや、それだと色々と困っただろう。
特にメンバーが増えた今、全員集まるとこの部屋でも少し狭いぐらいなんだ。
まぁこれは結果論だが。
だがこの話を由衣に聞かれると、高確率で「じゃあ毎日うちに来たら良いじゃん!」と言われるのが目に見えている。
……絶対この愚痴は口にしてはいけない。
そんなことを考えている間に片づけが終わった。
晩御飯を食べて、課題をして寝るか。
そう思い、テーブルまで移動して袋の中のものを取り出す。
今日の晩御飯は中華丼。
年末年始前後から、食べれる量も少しづつ増え始めた。
今では、何もないときなら1人でも平均的な量を食べれるようになっていた。
キッチンスペースに移動し、電子レンジの扉を開ける。
そのとき。
部屋の中に突然、音楽が鳴り響いた。
スマホの着信音だ。
……こんな時間に誰が何の用だ。
そう思いながら、手に持っていた中華丼を電子レンジの中に入れる。
そして温めずに扉を閉めて、スマホを探しに行く。
スマホは中華丼を取った時にテーブルの上に置いていたらしい。
画面には「智陽」と表示されている。
その名前を見た瞬間、嫌な予感が頭をよぎった。
とりあえず、応答ボタンを押す。
するとすぐに『あ、真聡』という智陽の声が聞こえてきた。
『今大丈夫?』
「なんだ」
『いやさ、ネットに「変な怪物みたいなのが居る」ってのを見つけて。ついさっき。
もちろんもう消されたけど』
このタイミングでか……。
だがとりあえず、現場には行かないと何もわからない。
俺は頭を切り替えて「場所は」と言葉を返す。
『星雲市運動公園。場所が場所だから私も気になって。今どこ?』
「自分の部屋だ。すぐに向かう」
俺はそう言いながら、外に出る準備を始める。
『わかった。他の皆には私から連絡しておくから気にしないで』
そんな智陽の言葉に、俺は反射的に「待て」と返した。
もう21時を過ぎている。他のメンバーを呼び出すのは……心苦しい。
今から出ると補導される可能性だってあるし、家族を心配させるだろう。
そう判断した俺は「他の奴らは呼ばなくていい」と返す。
『またそうやって……』
「時間が時間だからだ。昼間だったら呼んでいた。
とりあえず急ぐから切るぞ」
『あ、ちょっ』
そこで俺は通話終了ボタンを押した。
そして部屋の中から鍵を閉めて、上着を着なおす。
部屋の鍵と使うかもしれないプレートは持つ。
そして部屋の電気を消して、スマホの明かりを頼りにベランダへ向かう。
運動公園はこの部屋からは星雲市《この街》のちょうど反対側になる。
走っていくと時間がかかる。
だから身体を魔術で補助して、ベランダからの高さを生かして跳んで行こうというわけだ。
ベランダは外から鍵を掛けられないが……まぁ、この部屋には結界を張っているから大丈夫だろう。
それに5階だからな。
窓の鍵を開け、コートを着ていても寒風が染みるベランダへ出る。
そして、言葉を紡ぐ。
「我が身、何人たりとも視ること、感じること、認識すること能わず。
加えて我が動き、人の目で追うこと叶わぬ速さなり。その速さ、風の如く」
魔術が発動し、身体が少しだけ軽くなる感覚がした。
次に、手すりに飛び乗ると同時に足に星力を集中させる。
そして俺は、夜の街へと跳び出した。
☆☆☆
夜の街を跳んで駆け抜け、10分も経たずに俺は運動公園に辿り着いた。
運動公園は夜の暗闇と静けさに包まれている。
ただ、暗闇を外灯が照らしているだけ。
今のところ異常はない。
俺は魔術を一度全部止め、認識阻害魔術だけを無詠唱で再使用する。
そして感知魔術も使用してみる。
しかし、特に何も視えない。
だが、「怪物みたいなのが居る」と言われた以上は調査する必要がある。
俺は夜の運動公園の中に足を踏み入れる。
しかしこの移動方法を使うと、戦闘前に魔力を使ってしまうのがやはり問題だ。
……相手がカメレオン座やおおかみ座と言った、強敵でなければいいのだが。
そして少し歩いて思ったが……人気がない。
いくら21時を過ぎているとはいえ、人が1人もいないのはおかしい。
そのとき。
ガサガサと物音が耳に入った。
反射的に音がした方を向きながら構える。
その方向は、遊歩道脇の暗闇。
同時に「あ……あぁ……」という呻き声が聞こえてきた。
姿を現したのは、腕と足にヒレがある黒い体色の異形。
ふらふらとこちらに向かって歩いてくる。
そして異形からは僅かだが澱みと星力を感じる。
……堕ち星だ。
俺はすぐに左手でお腹を右から左になぞって、ギアを喚び出す。
次にいつものようにプレートを生成して、ギアに挿し込む。
そして肩の高さから左手を一周させた後、左手を左に伸ばして目元に隠す。
「星鎧 生装」
そう発すると同時に、左手でギア上部のボタンを押す。
すると、ギアから山羊座が深い青の光を放ちながら飛び出した。
月明かりがうっすらと照らすのみの暗闇を、神遺の光が照らす。
俺の身体はその光に包まれる。
その光の中で俺は紺色のアンダースーツと紺色と黒色の鎧を身に纏う。
そして、光が晴れる。
堕ち星はまだフラフラとしている。
だったら、こちらから行かせてもらう。
俺は地面を踏み切って、堕ち星を目掛けて跳ぶ。
そして、堕ち星の右肩を狙って踵を振り下ろす。
しかし、堕ち星は横に転がった。
目標物が移動したので、とりあえず俺は体勢を整えながら着地する。
いくら感じる澱みや星力が弱いとはいえ、これぐらいは避けられるか。
そう考えながら、俺は視線を堕ち星に向ける。
相変わらず感じる澱みや星力は少ない。
これなら、先に無力化してから考える方が早そうだ。
プレートを元の人間の体外に出すためには由衣を呼び出す必要もある。
俺はすぐにまた地面蹴って、堕ち星との距離を詰める。
そして今度は的確に、人間でいう頬の辺りに拳を叩き込む。
拳を受けた堕ち星は吹き飛んで、遊歩道を転がる。
吹き飛ばされた堕ち星を追いかけながら、その正体を考える。
あの細長い顔に、腕や足、背中にあるヒレのような物。
水生生物であることは確かだろう。
その中から、まだ回収も確認もできていない星座となると……。
そこまで考察したとき、堕ち星との間合いに入った。
そして堕ち星はふらふらと立ち上がったところだ。
魔術で一気に決めるか。
そう考え、杖を生成しようとしたとき。
堕ち星が少し背中を逸らした。
次の瞬間。
堕ち星の口から水のリングが吐き出された。
俺は慌てて杖の生成を止めて、左手を前に突き出す。
「風よ、吹き荒れよ!」
言葉を紡ぐと同時に、突き出した腕を起点に風が吹き荒れる。
その吹き荒れる風は迫りくる水のリングが激突して、瞬間的に霧が発生した。
……なるほど。ヒレに水のリング。
つまりはいるか座か。
そのとき、左側から嫌な気配を感じた。
俺は反射的に攻撃を受ける構えを取る。
そこにいるか座の拳が飛んできた。
俺は両腕でその一撃を受ける。
だが、大して痛くない。
やはりこの堕ち星、そこまで強くないのか?
そう思った瞬間。
打撃から一瞬遅れて、衝撃が腕に伝わって来た。
威力は並みだった。
だが、初めて受けた攻撃に頭が混乱している。
とりあえず俺は、吹き飛ばされる勢いと共にバックステップで距離を開ける。
一方いるか座は、相変わらず言葉にならない呻き声を上げている。
……どうなってるんだ?
いるか座は確かにトレミー48星座の1つ。
星座自体の地力が高くてもおかしくない。警戒するべき相手だ。
それにさっきまで気が付かないぐらいだった澱みの気配が、今は他の堕ち星と同じぐらいになっている。
なのに言葉は発さず呻いてばかりで、意思が読めない。
そして、今の攻撃は一体なんだ?
混乱する頭で状況整理をしていると、いるか座が右足を前に出して地面を踏み込んだ。
次の瞬間、遊歩道の乾いた地面から水柱が上がる。
いるか座はそのまま走り出し、俺を囲むように水柱が立ち始める。
そしているか座の姿は、水柱によって見えなくなった。
こいつ。こんなことまでできるのか。
だが、水柱の先端にいるか座の姿はない。
逃げるため……ではないよな。
どこから来る?
その瞬間。
俺の背後から水から出るような音が聞こえた。
恐らく、後ろを取られた。
対応が間に合わない。
ここからできるのは……。
俺はそう考えながら、全力で氷魔術を発動させようとする。
そのとき。
「耳塞げ!!」という声が聞こえた。
そして、夜の公園に甲高い「キンッ!」という嫌な音が響いた。




