56話 いつかあったこと
その日、アルマは夢を見た。
夢に出てきたのは、アルマが住むこの屋敷だ。だから、アルマは最初、勘違いをした。
『今』のことを夢に見ているのだと。あるいはもしかしたら、近い未来の予知夢かと。
なので、アルマは大して強い関心も持たず、夢の流れにただ身を任せて微睡んでいた。
夢には、ジェイドが出てきていた。
艶やかな、烏の濡れ羽色をした綺麗な黒髪、澄んだ碧い翡翠色の瞳、鼻筋はスッと通っていて、こわいほど整った容姿をしている彼は、まさしくジェイドだった。
しばらく、夢の中にはジェイド一人しかいなかった。ジェイドは一人静かに、本を読んでいた。
それから、急に屋敷の中が騒がしくなる。
「──ジェイド! ただいま!」
少年の声がして、ジェイドは読みかけの本をバタンと閉じ、部屋を出て、アルマもよく見慣れた大階段を降りて行った。
階段を降りた先のロビーには、金髪の少年と、亜麻色の髪の少女が二人並んでいた。金髪の少年は、王太子レナードによく似ていた。
ジェイドは二人を視界に入れると、ふと、柔らかく笑う。
アルマが知っているジェイドよりも、少し、幼いように見えた。
王太子レナードによく似た少年と、美しい亜麻色の髪を長く伸ばした少女。三人は微笑み合っていた。
アルマは彼らの姿を、見たことがある。
あの日、カインが勝手に入ってしまった部屋で見た絵画の三人だった。
少年がレナードに似ていたから、その顔はよく覚えていた。少女の顔はぼんやりとした印象には残っていなかったけれど、でも、きっと同じ少女だったと思う。
三人はロビーから移動して、アルマたちが普段食堂として使っている部屋に入って行った。
「人間と魔族が仲良く暮らすことができたら、それが本当の世界平和だと僕は思うんだ」
椅子に腰掛けたレナードに似た少年が、夢見事を口にする。しかし、それを否定する者はこの場にはおらず、ジェイドも少女もその言葉に深く頷いた。
「今はまだ、戦争は止められない。魔族の説得には時間がかかりそうだ。だが、しばらくの間は行軍は行わないようにだけは命令しておく」
「ありがとう、ジェイド。我が友よ」
「……お前も、人間たちの血気は抑えられそうなのか?」
「僕は君とは違って、王でもなんでもないからね。しかも、君たち魔族と違って、人間の思想はバラバラで、世界中に散らばりすぎている。数も多い。難しいけど、なんとか説得していってみせるよ」
「私の存在を、皆さんが信じてくださればよいのですが……」
「『聖女』レーラ。……みんな、まだ、御伽噺の存在だと思っているからね」
少女は俯く。長い髪が顔にかかるのを、白い手で払った。
「私は、この世界を守る使命を預かっています。人間と魔族との争いがやみ、二つの種族がそれぞれの利を活かして、この世界を豊かであり続けられるように……」
少女の言葉に、少年は深く頷いた。
「大地を豊かにするが、生産性と文明の発展力に欠け、力による破壊と支配を好む魔族。魔力をもたず、脆弱だが文明を発展させる叡智と繁殖力に溢れ、世界を動かしていく力を持った人間。今まではそのバランスを、二つが争う歴史の中でとってきたけれど、これからは共存する形で、バランスをとっていくべきだ」
意志の強そうな瞳を輝かせながら、少年は傍らのジェイドの顔を見上げた。
「ジェイド。君の見た滅びの予知夢……変わらないかい?」
「変わらない。魔族が滅びて、大地は魔力を失い、世界は崩壊していく。それでも人間は環境に適応して、長い年月を生き残ることはできるが……いずれかは世界自体が滅びる」
小さく首を振り、ジェイドはそっと、目を伏せる。
「……お前たちがやろうとしていることは、今までもずっと、何度も、検討されてきたことだ。しかし、その度に人間か、魔族か。どちらかが裏切った。裏切って、また争い始めて、その歴史を忘れた頃に、また歩み寄り、また裏切ることの繰り返しだった」
二人から背を向けたジェイドに、少年が歩み寄り、その肩をぽんと叩いた。
「それでも、君は、僕たちを信じてくれたじゃないか」
「……信じたわけではない。俺も、お前たちを利用しようとしているだけだ」
「魔族が滅びないように……ね。僕たちの最終目的は一緒だ。僕たちも、魔族と共存して、世界が滅びない未来を勝ち取りたい」
金髪の少年は口角をあげて、ニッと笑った。その眼差しは眩しいほど、煌めいている。
背を向けたジェイドの表情は、読み取れなかった。
「あら、ジェイド。怪我をしているわ……」
「少し切っただけだ」
「じっとしていて、治してあげるわ」
少女がジェイドの手を取ると、柔らかな光が少女の手のひらから発せられた。
ジェイドは指を怪我していた。彼女に触れられると、ジェイドの指から赤い傷跡は消え失せた。
「……お前は、俺を殺したくはならないのか?」
ジェイドは怪訝な顔をしていた。
「どうして?」
「『聖女』は、『魔王』を滅するための存在だ。今まで会ってきた『聖女』もみな、俺を殺そうと襲いかかってきた。お前はどうして、俺を慈しもうとする?」
「そうね……。私が、ジェイドが好みの男だったからかな……」
「ふざけるな」
「ふふ、ごめんなさい。でもね、私たちも、あなたを封じる以外の解決策があるなら、それに賭けてみたいのです」
「……俺はいつでも、お前を殺せる」
「ええ。魔王ジェイド、私たちの裏切りを感じれば、いつでも、そのように。でも、どうか、世界の終わりまで私を……私たちを信じていて」
『聖女』と呼ばれた少女は、それはそれは、美しく微笑んだ。
ただ、アルマはその笑みを、別の人物が浮かべているところを見たことがあった。
エレナだ。エレナのあの、信用ならない胡散臭い微笑みと、そっくりだった。
本物の『聖女』であるだろう彼女がどうして、エレナと同じ類の顔をするんだろうか。アルマは夢の中でありながら、背筋が凍った。
そして、どれほどの月日が流れたのだろうか。夢の中では、一瞬だったから、わからない。
ジェイドはこの屋敷の中で、美しく笑った彼女、『聖女』の手により封印された。
◆ ◆ ◆
(……今のは、夢……。でも、未来の予知夢じゃない……)
フラフラと、アルマは鏡に向かって歩いていく。
栗色の髪の中から、白い髪の毛を探す。見つからない。ただの夢なのだろうか。アルマは長く伸ばした髪を前に出し、後ろの髪からも、予知夢の証である白髪を探したが、見つけることができなかった。
(ただの、夢?)
それにしては、鮮明だった。
寝起きだというのに、ぼうっとする暇もなく、早鐘を打つ心臓が無理矢理にアルマの脳を覚醒させていた。
絵画に描かれた三人。三人の決意、約束。
魔族と人間の協定。聖女の存在。
(この夢が、過去に、実際に起きたことだったなら)
──魔王ジェイドは裏切られた。『聖女』と、マルルウェイデン王族の始祖の人間によって。
誓いは果たされず、ジェイドは三人で穏やかに暮らしていたこの屋敷の中で、封印をされる。『聖女』によって、封印され、魔族全てが封じられて、彼が所有していた城は奪われ、人間の国マルルウェイデンが建国される。
ぞっとする。
どうかただの夢であれと、現実で起きたことではないのだと、思わせてくれとアルマは願った。
しかし、この夢が真実であったなら、ジェイドを取り巻く過去に納得がいく。なぜ彼は『失敗』したと言われているのか、魔族は封印されることとなったのか、魔王の住んでいた城に今の王族が入れ替わりに暮らすようになってしまったのか。
アルマは身体を起こした。寝台に手をつくと、ギシと木の軋む音がいつもよりも耳につく。
部屋の扉を開け、階段を降り、食堂に向かう。
「アルマ。早いな、おはよう」
食堂にはジェイドがいた。ジェイドはいつも早起きだ。いつもなら、アルマが目を覚ました頃には彼は大体屋敷の外に出ているので、まさかちょうど鉢合わせるとは思っていなかった。
アルマは少し気まずくて、曖昧に微笑みながら挨拶を返した。
「……あ」
水が飲みたい。ジェイドの横を通り過ぎて、台所に向かおうとしたアルマだったが、ジェイドの声がそれを引き止めた。
「? どうしましたか?」
「ああ……いや」
歯切れが悪い。アルマが首を傾げていると、ジェイドは少し迷って、アルマの頭を指さした。「背中を向けてくれ」と言われて、素直に応じると、ジェイドは髪を一房そっと取る。
「……白い毛がある」
「えっ」
慌ててアルマは後ろを向くが、自分ではわからない。
「ぬ、抜いてください!」
「わかった。痛いぞ」
ブチ、と音がして、髪の毛が一本抜かれる。たしかに、白髪だった。
「……お前は苦労性だものな」
しみじみとジェイドが呟く。対して、アルマは呆然と口を開いた。
「……私、予知夢を見ると、白髪ができるんです」
「……は?」
「ほ、本当に! 真面目な話です!」
「あ、ああ。いや、すまん。そうか、お前にも、予知の力が……あるんだったな」
ジェイドはどこか、ポカンとしていた。エスメラルダもそうだったが、やはり、予知夢を見るたびに白髪ができるというのは、少し変なことらしい。
(……白髪が生えてる、ということは、あの夢は……)
未来のことではないはずだ。あれは、過去の出来事だった。
予知夢で見られるのは未来のことだけではないと、アルマはこの時初めて知った。
「……」
ジェイドの過去を見てしまった。きっとアレは、実際に起きたことだ。
それを知ったからといって、アルマはジェイドに何かを言ってやるということは、できなかった。何しろ、勝手に見てしまっただけで、しかも、その内容は過去のことだから、覆せるものではない。
ただ、ただ、ジェイドが裏切られたという過去の出来事。
アルマはぐ、と拳を固める。
ジェイドの、ただここで穏やかに過ごして、死んでいきたいという望みの切実さの一端を、ようやく身近に感じた。




