55話 二人の『これから』
「あの『契約機』……って、なんなんですか?」
エレナがいなくなってから、アルマはジェイドに切り出した。
ジェイドはアルマを振り返り、瞳を細めた。
「あれの本質が、人を使役する力だと前に話したな」
「ええと……はい」
アルマがジェイドと会ったばかりの頃だ。そういえば、その時のジェイドは「自分の手元にないのは不安だ」という類のことを、たしか言っていたと思う。
今のジェイドは手元に置いておくのを拒否したが、その変化の理由は、と考えるとアルマは気持ちが重くなる。
「これを使うことで、他の魔族たちを魔力の糸を支配することができる。……『契約機』によって、魔力の糸を扱える、それが魔王の条件だ。魔王に魔力の糸で縛られた魔族は、魔王から力を借りたり、逆に魔王の意思で力を吸い取られたりする」
「……えーと」
「その『契約』ができるのが、この『契約機』だ」
「でも、魔力のない人間でも使えるって……」
「それは機能の一部に過ぎない。魔王の素質を持つものだけが、この『契約機』の扱い方を知ることができる」
「素質……」
アルマの仮定があっているのであれば、魔王の素質とは『未来視』、予知能力を持つ魔族のことだ。
予知の力と、素質がどう結びつくのかは分からなかったが、アルマがそれを聞く前に、ジェイドが口を開いて続きを話すので、大人しくそれに耳を傾けた。
「……『契約機』を扱ったら、間違いなく、『魔王』と見做されてしまう。お前と会う前の俺だったら、そもそも『契約機』を使うだけの魔力もなかったが、今の力なら、使えるだろうな」
だからジェイドは、本来魔族の持ち物であったそれを、今は手に持ちたくないのだ。
ああ、やはり、と思う。
ジェイドが己の魔王の影に怯えるのは、アルマのせいだ。
「……私、あの時、やっぱりよくないことをしてましたか?」
「どうした?」
「……私の魔力を、ジェイドに分けたの……ジェイドは、迷惑だったんじゃ」
「そんなことはない。お前に起こされなかったら、俺はまた、いつまで寝ていたかわからなかった」
アルマの言葉に被せるように、ジェイドが食い気味に、早口で言った。
「……俺が、また魔王となるのを恐れているのは、あくまで俺自身の問題だ。そもそも、一度はなったものを、どうにかして逃げ果せようとみっともない姿を晒しているだけだ。お前のせいじゃない」
「でも……」
「もしかしたら、今日にも、明日にも、『聖女』が俺の元に現れるんじゃないかと、考えている」
ジェイドは顔を俯かせる。だが、ジェイドよりも背の低いアルマには、その表情がよく見えた。長い前髪がすだれのように目にかかり、黒髪の隙間から、碧い目を覗かせていた。
「単に、俺が臆病者で、卑怯者なだけなんだ。自分の犯した罪にも向き合わず、逃げ続けようとしているだけだ。……すまない」
「なんで、謝るんですか」
「……お前に、そう思わせてしまったから」
「……そんなこと」
アルマの手が、ジェイドの大きな手のひらに掴まれる。驚いたアルマがジェイドの顔をハッと見つめると、ジェイドは小さく何度か頭を振り、前髪を邪魔そうに払うと、アルマの目を真正面から、ジッと見つめ返した。
「せめて、お前にだけは、俺は……。お前が俺と一緒にいたいと望んでくれているなら、少なくとも、俺はお前がいる限りは、生き続けていたい」
「ジェイド……」
「……だから、もう少し、逃げていようと思う」
「……」
アルマは息を呑む。
「私が、死んだら」
「……その後のことが気になるのか?」
「気になります。……気になりますよ……」
「……そうか」
2年前には聞けなかったことを、アルマは聞いた。ジェイドは翡翠の瞳を曇らせ、眉を顰めた。ジェイドはアルマから目を逸らしたまま、アルマの頭を撫でた。
アルマはジェイドの胸に、顔を埋める。アルマの告白は、未だ受け入れられていないが、ジェイドはこうして甘えることは、許してくれていた。
きっとジェイドは、アルマが死んだ後に、エレナからあの『契約機』を受け取るのだろうと思う。そして、『聖女』に封印されるために、再び『魔王』となるんじゃないだろうか。
アルマの一生は、ジェイドに比べたら、ずっと短いのだろう。彼はその時を待っているだけだ。
ジェイドは、禊を受けたがっている。
そう思うと、寂しくなってアルマは年甲斐もなく、駄々をこねたくなった。
「ジェイドは、まだ、私はここにいるのはエレナのせいだけって思っているんですか?」
「……きっかけは、そうだろう」
「きっかけだけしか、見てもらえないなら、私、あなたと対等になれる時って、ありますか……?」
「アルマ」
困らせていると分かっていても、アルマは一度堰を切ったら止まらなかった。
こんな嫌な言い方しかできない自分の性格の悪さをアルマは呪った。
「……すまん」
「……今のままでも、十分なんです。十分だけど、でも、自分でもわからないんですけど、でも……。私、あなたのこと、もっと好きになりたい……」
「……」
アルマはジェイドの腰にぎゅうとしがみつく。ジェイドはそれを、振り払ったりはしない。
ジェイドがするのは、頭を撫でることと、肩のあたりをぽんぽんと優しくたたくことくらいだ。子どもをあやすかのように。
けしてジェイドはアルマを抱き返すことはしない。
「お前の気持ちが迷惑だったことは一度もない。誓っていい」
「……ジェイド」
「すまん。……ありがとう」
ジェイドの手が、アルマの髪をすくように撫でる。
「……お前を追放した王族はもういない。あれから二年経って、お前の顔を忘れてしまったものも多いだろう。民衆はみんなエレナに夢中だ。今なら、お前はヒトの世界に戻れるかもしれない」
「戻りません」
「ブリックのところに行ってもいいし、北国に行けば歓迎されるだろう」
「私、ここにいます」
「……お前の幸せはここでなくても叶えられるんだ。それでもか?」
「私は、ここがいいです」
俯かせた顔を上げられないまま、アルマは答えた。顔を押し付けているジェイドの胸の鼓動がやけに耳に響いた。
「明日、俺が突然消えてもか」
「突然いなくなられたら嫌ですけど……でも、それでも、ここがいいです」
アルマは服の裾を掴む力を強めた。ジェイドが息を呑むのが聞こえる。
「お前は、俺を選ぶのか?」
「……はい」
顔を上げて、ジェイドの瞳の翡翠色を見つめながら、アルマは頷いた。
「……わかった」
ジェイドは短く答えると、アルマの身体をふわりと抱き締めて、「もう少しだけ、このまま」と小さな声で囁いた。




