35話 呼び声に魔王は応じない
「ああ、なんと悲しい」
嘆く男の声がした。
頭からしとどに血を流しているが、全く意に介していない。
流れ出る血の色よりも、彼の毛髪、その赤色の方がずっと鮮やかな色をしていた。
「あなたのような、これほど魔力を溢れさせている方が、この私を殺せないだなんて」
男が近づいてくる。アルマは魔力で風の刃を繰り出した。男は避けもせず、歩を進める。
刻まれた傷口から流れ出る血液に、アルマの方が怯んでしまう。男は口角を釣り上げて、くつくつと笑い声を上げた。
「人の形をしているものをあなたは傷つけたことがない。あなたは人の形をしている私を殺したくない。力の加減がわからない。おかわいそうに」
目を細め、男はねっとりと笑う。
恍惚とすらして見える。アルマは悪寒を抑えられなかった。
「愛し子アルマ。魔族を殺すのなら、ちゃんと殺さねばなりませんよ」
男はアルマの耳元で囁く。
アルマは膝をついた。今まで、一度も感じたことのない感覚だった。グルグルと視界が回る。身体中から、力が抜ける。
「あなたと、私の相性は、きっと最悪だ」
赤い髪、赤い瞳。
あまりにも鮮やかすぎる赤。
アルマの意識の最後に残ったものは、その赤の色彩しかなかった。
◆ ◆ ◆
「どうして、どうしてわかってくださらないのです!」
階下から、大きな音がした。男の叫ぶ声、陶器が割れる音、地団駄を踏む足音。
アルマは息を潜めて、そっと大階段を降りて、一階にある応接間へと向かった。
「キ……」
使い魔のキリーが体を振って、「行くな」と示したが、主人のアルマには逆らえず渋々と言った様子でアルマの胸元に潜りんだ。
(嫌な予感がする)
魔族の男は激昂していた。ジェイドの言葉を信じるなら、かつて魔王であったジェイドの今の魔力量は乏しく、しかも、この間結界を張るのに力を使ったばかりで、もしかしたら、何かあった時に身を守る力すらないかもしれない。
ジェイドを守らないといけない。アルマは心臓をドクドクと脈打たせながら、応接間の扉に張り付き、控えていた。
ジェイドは男を客人として扱おうとしていて、アルマには「来るな」と言っていた。その言葉を裏切ることに多少の罪悪感はあったが、それよりもこの胸騒ぎを抑えられなかった。
「魔族の時代は終わった。それだけだ」
男の勢いに反して、ジェイドは短く言い切る。
「魔王様、同胞はもはや限られたのみ。しかし、我々は人間よりはるかに優れている。生きてるだけで資源を食い潰すだけの奴らが栄えるよりも、私たちがこの世界を治めるべきです。今しか、今しかないのです」
「お前は生き残った魔族の数をわかっているのか? 魔族が人間を支配することなど、不可能だ」
「人間たちを滅ぼしはしません。我々は魔力のある限りは生きていられる。人と共生するのです」
「人間を奴隷として扱うと?」
「人間の生活も保障しましょう、優秀なものは人間であっても指導者といたしましょう。しかし、全体の統治者は、魔族であるべきです」
「何度その歴史を繰り返しては失敗してきたと思っているんだ?」
「ああ、魔王様。どうか、お考えください。あなたしかいない、あなたであれば、できる」
「もう帰れ。もしくは、俺を許せないのならば、俺を殺せ」
「どうして、どうして!」
男の絶叫で、会話は途切れた。声にならない声となった怒号と嗚咽だけが聞こえた。
「今の──今、いない、今なら、できるのに、もう、あなたは失敗しないのに、あなたは、あなたのために滅ぼされた同胞に、報いる気が、ないのか!」
「ならば、殺せと言っただろう。俺に恨みを持つものであれば、誰でもいい。そのために俺は生きながらえた」
「あなたしか、いないのに、なぜ、なぜ──」
いけない。アルマは扉をぶち開けると共に駆け出した。赤髪の男は固めた拳を振りかぶっていた。
アルマは力を使った。魔力で作った風圧で男を吹き飛ばした。男の拳がジェイドに届く前に、なんとか間に合った。
「ジェイド様!」
「……ッ、アルマ! 来るな!」
ジェイドの制止を無視して、アルマは駆け寄り、ジェイドを庇うように前に出た。
ただ吹き飛ばしただけだ。魔族の男はピンピンしているだろう。アルマは警戒の姿勢を解かなかった。
「お前には関係ない。俺と魔族の問題だ。早く退くんだ」
ジェイドがアルマの肩を掴んだ。
「……キリー、アルマを連れ出せ」
「キ……」
短くジェイドが命令すると、キリーはアルマの懐から飛び出した。私の使い魔なのに、と驚愕するが、すぐに納得した。
(魔王、だからだ)
主従契約よりも、魔王の命令の方が優先されている。
キリーは小さな体躯には見合わない力で、アルマの手を引いて引っ張った。
「俺はこいつの怒りを受け入れる義務がある。お前の面倒を最後まで見れないのは、申し訳ないが、後のことはブリックに任せよう」
「何を、言ってるんですか?」
「俺のせいで魔族は人間に負けて、滅びた。その責を俺は負いたい」
ジェイドは死のうとしている。訪れた魔族の手によって。
「もう行け。この男には、お前に手出しさせないようにはするから」
「キ……」
キリーに掴まれた手のひらが痛い。凄まじい力でキリーはアルマの手を引いていた。
アルマは屈んでキリーの耳元にフッと息を吹きかけた。
「アルマ!」
キリーはアルマの魔力によって眠りに落ちた。ボトリと床に落ちる。
「な、なんで、死なないといけないんですか」
「アルマ、わかれとは言わん。ただ、関わるな」
ジェイドの命にアルマは首を横に振る。
「あの人に、あなたが殺されるというなら、私が守ります」
自分になら、できると思った。ジェイドに死んでほしくないと思った。アルマに吹き飛ばされて、壁に叩きつけられた魔族の身体がのそのそと動き出していた。
「は、あなたが愛し子アルマか。なるほど、なるほど……」
男は粘つく視線でアルマを頭からつま先までじっくりと観察していった。
「ちょうどいい」
一言だけ、そうこぼして男はアルマに向かって歩き出した。
「コイツはたまたまこの屋敷に匿われているだけだ。手を出すなよ」
「いいえ、魔王様。そうはいきません。私は、あなたを殺したくもありませんしね」
「……アルマ、今すぐ、とにかく逃げ……」
ジェイドの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「ジェイド様!」
よろめいていたはずの男が、いつの間にか、ジェイドの側にいて、ジェイドの頭を掴み、片腕だけで身体を持ち上げると壁に叩きつけていた。
(ふ、普通じゃない)
ジェイドも細身だが背は高く、けして華奢ではない。男はやすやすとジェイドを持ち上げていた。そもそも、なぜ、こんなに素早く動けるのだろう。瞬間移動でも使えるのか──。
「ぐ……」
ジェイドのうめき声が聞こえて、アルマはハッとする。
昏睡したジェイドから男の手が離れたのを確認すると、アルマは魔力を練って、男に向かって思い切り弾き出した。
魔力で練り上げられた風の刃は男の額を切り裂いた。赤い血が流れる。
アルマは反射的にびくりと身を震わせた。どれだけ、魔物を殺してきたか。魔物を魔族と呼び、人間の生活を守るために、魔族と呼ばれたそれらを殺してきたのに。
本物の魔族と対峙して、アルマは全くと言っていいほど、彼らに己の力を振るえないことに気がついた。
「ああ、なんと悲しい」
男はアルマを憐れむような目を向けた。
◆ ◆ ◆
「シグナル! お前は、何をした、何をしようとしているんだ!」
赤い男の名前はシグナル。
彼に連れ去られたアルマがその名を知ったのは、彼の元を訪れた、北国の王子カインの口からだった。




