29話 結界 張った やった 壊れた
ヴィスコの研究所を訪れたその翌日、朝の農作業と家畜の世話が終わってひと段落ついた頃、ジェイドはエスメラルダの店で買った水晶を持って、なにやら屋敷の周りをウロウロとしていた。
今日、結界を張るらしい。
「……結界ってどうやって張るんですか?」
ジェイドはアルマに声をかけられて、足を止める。
「この水晶を媒体にして、魔法陣を作る。四つの水晶に囲まれた場所に魔力の幕のようなものを張れば、それが結界となる」
「なるほど……?」
今回ジェイドが作ろうとしているのは一時的な結界ではなく、破壊されない限り持続し続ける結界、らしい。
この間まで張っていたものは、アルマが壊してしまった。
「ここに人間が訪れることはまずないが……念の為だ。魔力のないものが訪れても、結界に守られて俺たちの住む屋敷や畑は隠れて見えなくなる」
「魔力を持っている……魔族たちが来た場合は?」
「結界がある限り、姿が見えることはないが……魔族たちならば、ここに来れば俺がいるということはわかっている。強行突破してくるか、俺を呼んで結界に入れるように願うかはそいつら次第だが」
物憂げな様子でジェイドは長いまつ毛を伏せた。
「お前がここにきた時のように強い魔力を持った者が侵入しようとすれば結界は壊れる」
アルマはその時のことを思い出すと、なんとも身の縮む思いがした。悪気はなかったが、無理やり侵入しようと破壊してしまった。
「あの節はどうも……」
「いずれは壊れるものだ、気にするな。元々、何かあれば壊れると思って張っている」
「あの、私、ここを出入りしようとしたらまた結界を壊すなんてことは……」
おずおずと申し出ると、ジェイドはややきょとんと目を丸くし、微笑んだ。
「心配ない。俺が認めた魔力を持った者は通れるように作れる」
「そ、そうなんですね!」
アルマはホッと胸を撫で下ろす。
話しているうちに、ジェイドは水晶をどの位置に設置するかを決めたようで、そこからはテキパキと結界を張る支度を進めていた。
「何かお手伝いできることは……」
「……いや、これは俺がやらねばいけない」
アルマが声をかけてもジェイドは振り向かず、その横顔は神妙そうであった。
アルマは素直に身を引き、ジェイドが結界を張る姿を見守ることにした。
(……そういえば、私、ジェイド様が魔力を使うところ、初めて見る……)
強い力の気配は感じていた。しかし、ジェイドが自身で語るのはいかに自分の魔力量が少ないかとそればかりだ。力の強さと量は比例しないのかもしれないが、アルマにはその辺りはよく分からない。
ジェイドは四方に置いた水晶の中心に立ち、広げた手のひらを頭上に高く掲げた。ジェイドの碧の瞳がぼんやりと輝く。煌めいているのは、魔力の輝きだとアルマにはわかった。
なにか、空気が揺れる感じがして、耳鳴りのような者が響いた。アルマは思わず耳を抑えた。
「……できた」
耳鳴りも止み、急にフワッとする感覚がしたと同時にジェイドが呟く。
なぜかジェイドの口元には微笑が浮かび、なんだか誇らしげに見えた。
「も、もうですか?」
「ああ、エスメラルダの水晶があるからそう難しいことではないんだ」
ジェイドは自身の手のひらをしばらく眺めていた。アルマには分からないが、結界の感触のようなものを確かめているのだろうか。
「アルマ、ありがとう」
「え、私、何も……」
急なジェイドの感謝にアルマは戸惑って、ジェイドの顔を慌てて見上げた。
「お前のおかげで、この土地は魔力に満ちている。だから、結界も張りやすいし、俺も疲れにくいんだ。俺自身の魔力も以前よりも増えてきた」
「そ、そうなんですか? でも私が何かしたわけじゃ……」
「お前がいてくれるだけでいいんだ」
ジェイドの細められた瞳と目が合う。思わず「う」と間抜けな声だけが出て、アルマは言葉に詰まってしまった。
「そ、その言い方は、なんだか……」
そういう意味ではないことは、よくわかる。アルマが大地の愛し子であるから、畑の世話をしているだけで魔力が満ちるから、そういうことだ。もしかしたら、文字通り何もしなくても自分は魔力を振り撒いているのかもしれない。
「前に結界を張った時は、張り終えた後3日くらいは何もできなくなったんだ。あの時はブリックに迷惑をかけてしまった」
(……なんだか、ものすごい想像がつく……)
寝込むジェイドに馬鹿とかなんだかんだ言いながら世話を焼くブリックの姿がアルマの脳裏にありありと浮かんだ。
「……実は今回は、少し自信があったんだ」
やはり、さっき誇らしげな見えたのは見間違いではないらしい。嬉しそうだ。
口角を上げて微笑むジェイドの表情はいつもよりも幼なげに見えた。
「ジェイド様、すごいです、よかった」
アルマは素直にそう口にした。
鏡はないが、自分もきっと今笑っていることだろうと思った。
「ありがとう、アルマ。お前がここにいてくれるのは、エレナのせいというのはわかっているが、それでも俺はお前の存在がありがたい」
「そんな……」
きっかけはエレナがアルマを城から追い出したせいだが、でも今は今まで生きてきた中で、一番居心地がいい居場所がここなのに。
ジェイドは、アルマがここにいることを手放しで喜ぶことはけしてしなかった。感謝の言葉を口にはするが、彼自身の引け目がずっとあるようだった。
それが、彼の誠実さであることはわかっているが、アルマはそれが少し寂しい気がした。
──パン!
「え?」
面映いような、しんみりするような不思議な気持ちに浸っていたら、いつかどこかで聞き覚えのある音がした。
この破裂音は、アルマがこの屋敷を初めて訪れた時に聞いたその音と同じだった。
つまり。
──壊れた。張ったばかりの結界が壊れた。
「……」
ジェイドの眉間に皺が寄るのを見て、アルマは「あ」となる。よく見ると眉間だけでなく、唇もギュッと噛み締めていた。
(お顔が整ってると、顎に梅干しできててもそんなに変顔にならないのね……)
アルマはジェイドの並外れた美形っぷりに、なんだか感心してしまった。
「……アルマ」
「あっ、は、はい! すみません!」
「気をつけろ、誰か、くるぞ」
アルマはふるふると首を振り、息を整えて意識を集中させた。結界が壊れた、ということは、侵入者が現れたということである。
エスメラルダから、ジェイドを守ってほしいと言われた。早速その機会が来たのだ。
ジェイドの屋敷で暮らすようになって、すっかりのんびりと過ごす日々に慣れてしまっていたので、こんなふうに気を張り詰めるのは久々だ。
結界が壊れた破裂音からややあって、人の足音が響いてきた。
「……ここは……」
若い男の声だ。
「……! アルマ殿……!」
「あ、あなたは……?」
北国の第三王子、カインがそこにいた。




