番外編 藁の中にいる
「……」
魔王が藁の中に埋もれて、寝ている。
家畜小屋に行ったきり、帰ってこないジェイドの様子を見に来たアルマは、呆気に取られた。
魔王が、藁の上に大の字になって寝ている。整った高い鼻からは穏やかな寝息がかすかに聞こえ、仰向けになった胸は静かに一定のリズムで上下していた。
間違いなく、彼は安眠していた。
呆然とその様を見ていると、牛の姿をした魔物が低く唸り声を上げながら、アルマの背中を、鼻でつついた。
「わあ」
魔物は濡れた鼻をアルマの腕に擦り付ける。甘えているのだろうか。アルマは腰を捻らせて、半身だけを振り向かせ、獣の顎の下を撫でてやった。
人間の体温よりも温かく、短い体毛に覆われた肌はじっとりとしていた。だが、不快感はない。『魔物』とはいえ、ジェイドいわく牛と交配させて作られたこの魔物は、おとなしく、世話さえしてやっていれば人懐っこく、愛らしかった。村で飼っていたヤギを可愛がるのと、さして代わりはなかった。
家畜小屋は獣の匂いがするし、鶏型の魔物はひたすらコッコッコッと鳴いていてうるさいし、熟睡するには良い環境ではないのじゃないかしら、とアルマは思わなくもなかったが、しかし、とにかく事実として魔王のジェイドはここでよく寝ていた。
(……あ、でも、私も小さい時はよくヤギの小屋で寝ていたかも……)
ヤギと一緒に、丸まりながら藁のベッドで寝ていた記憶が、アルマにもあった。「アルマがいない」と村中で騒ぎになって、ようやくヤギ小屋にいるのを見つけられた時、珍しく怒られたことを、アルマは覚えている。
実の両親は物心つく頃に、死別してしまったが、村長の家に引き取られたアルマは大切に育ててもらっていたと思う。
(……)
脳裏に、育ててくれた村に別れを告げたあの日のことが過ぎる。
村長はアルマに、この村に留まることを求めた。乱暴な手段によって。
あの老人はアルマにとっては優しい老人だった。村のために、小さい時から、畑の世話をしたり、魔物を倒すのは嫌なことではなかった。みんなの助けになっているのなら嬉しかった。役に立つことで、みんなから愛してもらっているのだと幼いアルマは理解していた。
「……どうした」
「ひゃっ!?」
「……なんだ。起こしにきたんじゃないのか? ずいぶんと驚くものだ」
「ぼ、ぼーっとしてまして……」
ジェイドは藁のクズをひらひらさせながら、腕を伸ばし、あくびをした。切長の瞳は、まだ眠たげで瞼を重たそうにしていた。
「ここは、湿度もあって外よりも温かいからつい眠くなるんだ」
「あ、よく、寝ちゃうんですね」
「……顔色が悪い」
「え?」
ジェイドの眠そうな目がさらに細められ、まるで睨みつけられているかのようだった。なまじ、ジェイドの顔が整っているせいでアルマはドキリとする。
「どうかしたのか?」
ジェイドは、問いを繰り返す。
「……ちょっと、懐かしくて。村で、ヤギを飼ってたから……」
「ほう」
「私も、小さい時はよく小屋の中で寝てました」
アルマが笑い顔を作ると、ジェイドは「そうか」と短く返す。
「あの、だから、わかります。ジェイド様がここで寝ちゃうの。気持ちいいですよね」
なぜか、アルマは付け足すように、言葉を重ねた。ジェイドは聞いているのか、いないのか、長めの瞬きを数度繰り返していた。
アルマはそれを、長いまつ毛だなあとぼんやり見つめていると、不思議と少し心が落ち着いた。
「……いい思い出なんだな」
「えっ」
少し間があって、投げかけられた言葉にアルマはきょとんとする。
「お前は、故郷のあの村のことが好きなんだな」
「……はい」
アルマは頷く。
村にいる時から、陰で『魔族の子』と疑われたり、揶揄されていたことも知っている。大事にされていたのは愛情だけではなくて、打算も含まれていたこともわかっている。村長が、アルマの意思は関係なく、ただ村のためだけにアルマを置いておきたがっていたことも。思惑があって、幼いアルマを城へ送り出した過去のことも、わかっている。
「私は、あそこで大切に育ててもらったと思っています。……全部が全部、いいことばかりじゃないですけど、でも、あそこは、いつまでも懐かしい場所だと思います」
素直な気持ちを伝えると、ジェイドは長く目を伏せ、そして眠たげだった眼をぱっちりと開かせて、真っ直ぐアルマを見つめた。
「俺は、思い出までは疑わなくていいと思っている。たとえ、裏切られたとしても、利用されていただけだったとしても、その時自分自身が感じていた彼らの信頼や愛情も、自分が抱いた誇らしさも、それは真実なのだと思っている」
アルマはまたも、目を丸くし、ぱちぱちと瞬きをした。ジェイドの瞳はアルマをしっかりと見つめている。ジェイドの元で暮らすようになってしばらく経ち、すでに見慣れてきたジェイドの真顔だ。
「……ありがとうございます」
アルマは、自然と顔を綻ばせていた。こういった真剣さが、ジェイドの優しさなのだろうと、アルマは思っていた。
アルマの、故郷への複雑な胸中を解しての言葉だろう。「思い出までは疑わなくていい」、その言葉は、なんだかとてもアルマの胸にスッと響いた。
ジェイドはにこ、と口元を微笑ませ、かと思うと、静かに瞼を閉じてしまった。
(……また寝た!?)
さっき、あんなにハッキリと目を開かせていたのに、あれだけしっかり喋っていたのにと、アルマは驚く。恐る恐る、一歩ずつ近づいていくが、アルマの影が顔にかかっても、ジェイドはピクリとも反応を示さない。
背後から、鶏の形の魔物が鳴く声が響く。アルマが少しドキドキしながらジェイドの様子を伺っていると、ほどなくして、穏やかな寝息がかすかに聞こえてきた。
ジェイドが再び眠りについたのを確認し、アルマは急に肩から力が抜けた。
はあ、と大きめなため息をついてしまったが、それでジェイドが起きることはない。
アルマは横たわるジェイドのそばに、そっと腰を下ろした。藁の感触が、フカフカと気持ちよかった。手のひらが藁に埋もれると、ほのかに温かい。
ジェイドの胸が、ゆっくりと上下する。そのささやかな動きを眺めていると、次第にアルマの瞼も、重たくなってきてしまった。
◆ ◆ ◆
──ジェイドが目を覚ますと、アルマが隣で寝ていた。
(……こんなところで寝られるのか)
わずかにジェイドは驚いたが、すぐにまた微睡のなかに誘われていく。
家畜小屋の藁の中で寝てしまうのは自分も一緒だ。人のことは言えない。
しかし、小さい頃は小屋で寝ていた……と話していたが、大きくなった今も変わらないじゃないかと思うと、少し面白い気がした。心地よい眠気の中でジェイドはクスリとわずかに笑ってしまった。
アルマがここに来たばかりの頃に、家畜は臭いから嫌じゃないかと聞いたら、むしろ獣くささが癖になるとか、この臭いが愛おしさを増すのだといった、そんな類のことを言っていたのをぼんやり思い出す。
実際、彼女は魔物たちに優しく接していた。自分といる時よりも、家畜小屋で魔物と戯れている時の方が自然と笑い顔が増えていた。魔物、いや、動物が潜在的に好きなのだろうな、とジェイドは思った。
気を張っていることが多い彼女が、気を抜ける時間がここにあるのなら、良いことだと思う。
(……俺が横にいても、寝られるのか……)
ぼんやりとした意識と、視界で、ジェイドはアルマの寝顔を見つめた。
眠る彼女の顔は、普段よりも幼くて、幸せそうに見えた。胎児のように身体を丸めて、横向きになって寝ている。
ジェイドの視線を感じてか、わずかにアルマが身じろいで、頭を振ると、藁のクズがわずかに舞った。
空中を舞う藁クズを目で追いながら、ジェイドの意識も落ちていく。
この次に、ジェイドを起こしたのは、アルマの「ぎゃあ!?」という叫び声だった。




