エルレッタ・Ⅵ
エルレッタ王が立ち去っていったあとも、私は一人壁の花となって、聖女様たちを見守りながら少しの間もの思いに耽っていた。
私は強制力に抗えていないのではとずっと葛藤していたけど、私の積み重ねてきた抵抗は意味のあるものだったのだと、背中を押してもらえたような気がした。
エルレッタ王のこと。魔術師として繋いだ友情の証として、今この髪飾りを身に着けていること。それは現時点での答えのように思えたから。
私だって目に見えないほんのわずかかもしれないけど、それでも一歩一歩前に進んでいると、そうこの白鳥が教えてくれたような気がした。
幾人かとダンスを踊り終わって戻ってくると、少し離れたところにライルが佇んでいて、目が合う。
夜会ももう終盤で、貴族のご婦人、ご令嬢方とも何度も踊ってきたのだろう。その表情に明確に疲れが浮かんでいる。
ざわつく胸を叱咤して、ゆっくりとライルに近づいた。
「ライル」
ライルは私がやってくるのを見ていたけれど、逃げたり拒んだりはしなかった。
「随分とエルレッタの王族と懇意になったみたいだな」
その瞳にはあのときのような激しさはもう浮かんでなくて、それにひとまずほっとする。
「その髪飾り、それ、もしかしなくとも“エルレッタの羽ばたく白鳥”だろう」
「知ってるの?」
「知っているもなにも……ああ、そうだった。君はそういうことにまるで関心がない人だった」
少し強張っていたライルの声が、呆れたようにふと和らぐ。
「エルレッタの著名な宝石職人、ルカニアが作り出した有名なシリーズだ。その最たるものがエルレッタの王妃が愛した、寄り添う白鳥のティアラだと言われている。その髪飾りも貴重な装飾品のうちの一つだ」
驚きのあまりに目玉が飛び出そうなほど目を剥いた私に、ライルは思わずといったように笑みを浮かべた。
「これ、そんなに貴重なものなんだ……」
ライルがゆっくりと頷く。
「びっくりして声も出ないよ……」
「私も君が身に着けているのを見たときは、正直驚いた」
気づけばいつもどおりに話していた。正面を向いたまま、視線は合わせられなかったけど。
「私は……あの日、陛下にちょっとしたお手伝いを頼まれて、それで……」
「……あぁ」
「本当にちょっとした、個人的な魔術師としてのお手伝い」
「そうか……じゃあ、一昨日はその、魔術についての話を?」
「うん。一緒に魔術書を探してた」
ライルはほっとしたように肩の力を抜く。
「君がエルレッタの王族からなにかしら嫌味を言われたりしたんじゃないだろうかと、あの日は気が気でなかったよ。君は随分と様子がおかしかったし。でもそういうことはなかったようで、なんだか安心した」
その言葉に、ライルを見つめる。
「……うん、心配かけてごめん。ずっと魔術書を探していて、あんな時間になってしまって」
ほっとした途端、溢れるように言葉が出てきた。
「この城の書庫ね、すごかったよ。たくさんの魔術書が蔵書されていて、ブライドン学院の書架室にもないような魔術書もあったんだ。だから目的の魔術書を見つけ出すのになかなか苦労した。それでね、パラケルススの魔術書が実は第二章から第七章まであって――」
「ソフィ」
ライルに呼ばれて、口を噤む。いけない、安堵のあまり、余計なことまで捲し立ててしまった。
「私も、一昨日の無作法を謝りたい」
ライルは意外なことに謝ってきた。
「すまなかった。わかっているつもりだった。これでもソフィは心を開いてくれているほうだって。ソフィに無理強いしたくないから待つと、そう決めたのは自分なのに……それなのに私は、いつの間にか足りなくなってしまっていたんだ」
ライルは苦悩するように睫毛を伏せた。美しい横顔に葛藤が浮かぶ。
「ソフィにすべてをさらけ出してほしい。君のことはすべて知っておきたい……君のなにもかもがほしいと、そう、願ってしまった」
驚きと混乱に、思考が止まる。ライルは視線を伏せたまま、ただ淡々と続けた。
「あのとき、あの夜、君の作る火の花を見ながら言った言葉を、嘘にしたくはない」
ライルはあのとき、言った。
『君の決心がつくまで、待つと決めた』
オーウェンに対するこの気持ちを、この旅の行く先を知っていることを決して言えなかった私に、ライルはそう言ってくれた。
「ソフィの決心がつくまで、心を開いてもらえるまでいつまでも待つつもりだった。でもソフィがあまりにも頑なだから、いい加減こっちから強引にその壁を割って入らないといつまでたっても辿り着けない気もしている」
ライルはまるで焦がれているように告げてきた。
「私は誰よりもなによりも、君のそばにいたい」
亜麻色の整えられた髪が少し乱れて、落ちかかった前髪の向こう、長い睫毛の奥のアイスブルーの瞳がちらりと見上げてくる。その瞳に映し出された色は。
「それは……」
……彼はライオネル・アディンソンになるかもしれない。いずれその心も完全に聖女様のほうを向くかもしれない。
そのとき彼は、私を騙すかもしれない。欺き、傷つけ、私一人に罪をなすりつけるかもしれない。
でも、それでも。
「あのとき、私はなぜライルが聖女様と二人きりで夜の庭にいたのか、訊きたかった」
ライルが視線を完全に上げる。
「やきもちを焼いたんだと、思う」
形のいい目が、段々と見開かれていく。
「ライルと一番仲がいいのは私のはずなのに、それを取られたような気がして、なんだかモヤモヤして、そしてショックだった」
口に出して、納得した。ああ、そうか。私、ライルのことを――。
「私……ライルの一番そばにいるのは、私がいい」
今のライルがそんなことをするとは思えないし、しないと信じている。
だけどもしも万が一、この先ライルの心が変わってそうなってしまったとしても、そのときはライルの一番の友人である私が、絶対に彼を止めてみせる。
だから今だけは、私も彼の素直な気持ちに応えてみようと、そこまで言い切って。そして……意外だった。
こんな貴重なものが見れるとは思わず、まじまじとその顔を見つめてしまう。
じわじわと頬を染めたライルは言葉も出ないようで、しばらくそのままぽかんと私を見つめていた。
私もそれ以上なんて言ったらいいのかわからなくて、しばらく二人とも、呆けたように見つめ合う。……あまりにも見つめられすぎて、そのうち居た堪れなさに耐えきれなくなってくる。
ライルがいつまで経ってもなにも言わないものだから、ついに気まずくなってふいと視線を逸らすと、こっちを伺っていた貴公子の一人と目が合った。
「失礼」
会話を止めた私たちはもう用が済んだものと思ったのか、その貴公子が歩み寄ってきて話しかけてきた。
「魔術師ランドルフ、よければダンスでもどうです? 実はみんなあなたの順番待ちで、今か今かと待ち構えていたんですよ」
「それは大変失礼いたしました」
慌てて差し出されたその手を取る。エルレッタ王と話し込んだりライルと話し込んだり、そういえばあまり踊っていなかった。
そのまま貴公子に手を取られてフロアへと進み出る。
そのあと結局、ライルと二人で話す機会はもう訪れなかったけど。
エルレッタ城を出立する日、自ら見送りに出てきてくれた王が激励の声をかけてくれた。
彼は一人一人に声をかけたあと、最後に私と向き合った。
「またあなたの助言が必要になるときが来るかもしれない」
エルレッタ王はかすかに微笑んでいた。
「あなたの旅の無事を祈ろう。いつかまたあなたが訪れてくれる日を、楽しみに待っている」
「はい。……旅が無事に終われば、必ず」
次の約束がある。私の帰りを待ってくれる人がいる。居場所が増えるのは、この上もなく心強い。
エルレッタの神殿に出発する聖女様を、たくさんの民衆が見送っている。
振り返って、佇んでいるエルレッタ王を見る。
渡り終った跳ね橋がゆっくりと上がっていき、やがてその姿も見えなくなった。
エルレッタ国内の浄化の神殿に向かいながらも、私は早くも次の国について考えていた。
エルレッタでは王と縁を結べた。ライルと聖女様の仲を深めるイベントを阻止することはできなかったけど、でも今までになくライルの本音が聞けた。
だけど、だからといってライルと聖女様の仲が離れたかというと、そういうわけでもなく。
さっきからずっと、オーウェンと聖女様とライルの三人は仲良さそうに喋っている。そもそも、以前から三人はだいたいいつもなにか楽しそうに話し込んでいることが多かった。思ったよりもオーウェンとライルがギスギスしている感じはないが、それでもそれぞれが聖女様との仲を深めていっていることには違いない。
ただ、次の国ではオーウェンと聖女様の仲に進展が見られるはずだった。
次の国、ミュルクウィス。エルレッタの山間部を抜けていって下った先、広がる暗い森と湿地帯を通っていくと現れる、ひっそりとした小さな王国。
ミュルクウィスでは、この国特有の湿地帯からとれる、ある植物を魔術素材に使った特殊な魔術が発達している。
――創傷治癒魔術。
この国が産出する魔術薬はほぼすべての国で使われている。もっとも汎用的で、もっとも優秀な薬を大量に産出できる国。
この国で遭遇する出来事のおかげで、聖女様はやっとオーウェンへの恋心を自覚するようになるはず、なのだ。
そのときふと呼ばれたような気がして、俯けていた顔を上げる。
聖女様を見送りに来ていた群衆の中に、古ぼけたマントのフードを被った男――緩い白髪に輝く紫の瞳を笑ませた男の姿があり、目を見開く。
――あれはリンリールさん?
リンリールさんのような白い幻影はしばらくこっちを眺めていたけど、やがてさっと背を向けて人混みの中に消えていった。




