第三十七話 審判⑥
ランベールは周囲へと兜を向ける。
一面に、異常な外観の花々の続く、魔の花畑が展開されている。
天は桃色に艶やかに輝き、山々は、青や赤に塗りつぶされている。
花々には一つ一つに目や口があり、笑い声を上げていた。
それらはランベールを歓迎しているというよりは、彼を笑い者にしているかのようであった。
異様な状態であった。
ランベールにも、すぐにはここが何なのかはわからなかった。
ただ、それでも、ランベールは下ろしていた大剣を、すぐに無意識的に構え直す。
歴戦の戦士であったとしても、この状況に陥れば理解が及ばず、何もできずに突っ立っていることしかできないであろう。
しかしランベールは、幾万もの窮地を、剣と鎧のみで乗り越えて来たのだ。
癖というよりも、彼にとって剣を構えることはごく当たり前のことであった。
アルバナは花畑の離れたところに立ち、琴を弾き続けている。
「……お連れしたのですよ、ランベール・ドラクロワ。貴方を、最高位精霊、亜界の主の御前へと」
アルバナはランベールと目が合うと、彼へと静かにそう返した。
アルバナの顔つきから受ける印象が、普段とやや異なる。
どうやら、こちらの世界では、彼女も目が見えているようであった。
ランベールの目前で、花畑が大きく盛り上がった。
その巨体の影にアルバナが隠れる。
正にその巨体は、花の山としか形容することができない。
花の山に僅かに形に凹凸ができ、顔や輪郭が表れていく。
その姿形はどこか竜にも似ている。
身体中に咲いた花々は美しく、神々しさがあった。
最高位精霊、亜界の支配者オーベロンが、ランベールの目前へと顕在化した。
「見事なものだ……」
ランベールは剣を構えたまま、オーベロンの頭部を見上げる。
オーベロンはしばしランベールと目を合わせた後、顔の形状を豹変させる。
簡素に添えられた目と口の窪みが鋭利につり上がり、花々の花弁の奥より、びっしりと人間の瞳が現れた。
百ヘイン(約百メートル)の巨体にびっちりと埋め込まれた瞳の群れが、ランベールを睨む。
そしてオーベロンは、ランベールへと向け、その大きな頭部を伸ばして来た。
口が大きく開かれ、ランベールを呑み込もうと迫る。
質量差が、あまりに大きすぎる。
これではまるで、一つの山と殴り合うようなものだ。
「まさか……この俺を、幻覚に掛けるなどとはな」
ランベールはそう言い、頭上へ振り上げた大剣を地面へと一気に叩き落とした。
ランベールよりも遥かに大きいオーベロンが、大剣の描く軌道によって左右へ分断された。
いや、この空間自体が刃によって断たれていた。
一瞬のことであった。
桃色の空や山、オーベロンが引き裂かれ、渦を巻いて輪郭がぼやけていく。
異界は終わり、簡素な地下通路へと引き戻されていた。
アルバナは床に座り込み、琴の音を鳴らしていた。
アルバナの足許には、幻影を見せられる前にランベールが彼女を斬った傷から溢れた、血溜まりが生じていた。
先程の幻覚は、エウテルベ部族の絶技『白昼夢』であった。
エウテルベ部族の人間離れした超感覚は、琴の音の振動に自身のマナを乗せて相手のマナへと干渉させ、返って来た音を拾うことで、相手のマナの状態を知ることができるのである。
相手のマナの流れを完全に掴んだ後は、その流れに合わせた旋律を即興で作り出し、相手のマナを支配することさえ可能となるのだ。
後は支配下に置いた相手のマナに誤った五感情報を掴ませ、恐ろしい幻覚を見せつける。
マナの幻視は、現実の体験と何ら変わりはしない。
マナとは、万物に宿る根源的な生命エネルギーである。
言い換えれば、魂にも等しい。
エウテルベ部族の『白昼夢』とは、魂を縛る旋律なのだ。
アルバナの狙いは、相手のマナに直接濃縮された苦痛と死を体感させることで、ランベールに宿るマナを崩壊させることであった。
だからこそ、アンデッドであるランベールに対しても、人間同様に等しく作用する、そのはずであった。
計算違いがあったとすれば、アルバナの操れる規模の亜界の精霊では、『白昼夢』のための準備の時間をランベール相手に充分に稼げなかったことと、彼の桁外れに高い精神力であった。
最初から相手のマナを支配しきることができていなかったとしても、幻覚によって相手の精神を挫くことさえできれば、『白昼夢』へと完全に引き摺り込めていたはずなのである。
老齢に至るまで過酷な修行を積んだシモンでさえ、幻覚のオーベロンの御前では正気を保つことができなかった。
だが、ランベールはオーベロンを前にしても大きく動じることなく、静かに大剣を構えていた。
その差であった。
「……さすがです、剣士様」
アルバナは苦し気に息を荒げながら、それでも不器用な表情を動かし、笑顔を作った。
ランベールは途中まで下ろした大剣を、アルバナのすぐ頭上で止めた。
「すまない、アルバナ」
「……謝らないでください。貴方は、何も間違えたことはしていません。それは貴方自身が、よくわかっているはずです」
アルバナがそっと目を瞑る。
「最後に、お願いがあります。この琴を……跡形もなく、焼却してください。エウテルベ部族は、私が本当に最後の一人でしょう。きっとこの琴は、残っても、悪用されるだけでしょう」
「……ああ、確かに頼まれた」
ランベールの大剣がアルバナの首を落とした。
彼女の頭部が転がり、周囲が鮮血に染まっていく。
両腕は死んでなお琴を抱えていた。
ランベールは彼女の手より琴を受け取り、今度こそ地下通路を後にした。




