第百九十七話 お願い
「ふう……」
俺は一人、ダイニングのテーブルに座り、呆然としていた。
結局、昨夜はほとんど眠れなかった。ウトウトとしたらすぐに目が覚める。そんなことを繰り返してようやく朝を迎えたところだ。
クレイリーファラーズは帰ってこなかった。行先は大体見当がつくが、迎えに行く気になれない。それよりもヴァシュロンだ。きっともう、村を出ているだろう。どの辺りを歩いているだろうか。あの森を抜けるのだ。魔物に襲われる可能性は低いだろうが、それでも女一人の旅だ。何があるかわからない。
……もう出ていった人のことを心配して、どうなるんだ。
ふとそんな考えが頭をよぎる。そうだ、考えても仕方がない。どうなるものでもない。
「にゅ~」
ワオンが心配そうな表情を浮かべながら、俺を見ている。
「大丈夫だ、ワオン。もうすぐ復活するよ。……お腹がすいただろう。朝飯を作ろうか」
そう言って俺はキッチンに向かう。パンを焼き、卵焼きを作る。
「さ、今日は簡単ですまないな。足りなければ、ソメスの実かタンラの実をあげるからね」
「にゅ~」
彼女は待ちかねたとばかりに、パンにかぶりついている。いつ見てもこの食いっぷりは、気持ちがいいものだ。何だか、少し元気になれそうな気がする。
そのとき、玄関の扉が開く音がした。
コツ、コツ、コツ……。小気味いいリズムを刻みながら、足音が近づいて来た。
「にゅ?」
ワオンがさっと振り返る。俺はキッチンを出て、ダイニングに向かう。
「……」
絶句してしまった。そこには、ヴァシュロンがいた。彼女は両手をギュッと握り締め、怒りの表情を露わにしながら、じっと俺を睨んでいた。
……そうだ。初めて彼女がこの屋敷に来たときと、同じ光景だ。俺が彼女の尻をブッ叩いたあと、散々付け回された挙句にこの屋敷に乗り込まれたんだ。あのときと、全く一緒だ。
「……やめてよ」
出し抜けに彼女が口を開く。握り締めた両手がかすかに震えている。
「……覚悟が、鈍るじゃない」
「……」
「どうして、あんなことをするのよ……」
「……ごめん」
「せっかく決めたのに……せっかく……」
まるで堰を切ったかのように、彼女の目から涙が溢れてくる。その涙を必死でこらえているのか、悔しそうな表情を浮かべると、懐から何かを取り出して、俺の前に差し出した。
「何よ……これ……」
手に持つ紙が震えている。
「訳の分からない言葉を書かないでよ!」
突然、ヴァシュロンの金切り声が響き渡り、思わず体を震わせて固まる。彼女は溢れ出る涙を拭おうともせずに、ハアハアと肩で息をしている。
「何だと思うじゃない! 何を言いたいのか、何を伝えたいのか、わからないじゃない! 何回も読んだわ。何回も何回も……」
彼女は一旦言葉を切り、俺から視線を外す。そして、再び強い意志を湛えた瞳を俺に向ける。
「『きみがすきだ。だいすきだよ』って読めたわ。どういうことよ? 偶然?」
「……いや、敢えてそのメッセージを入れた」
「そういうところが嫌いなのよ!」
手に持っていた紙を床に叩きつけながら彼女は叫ぶ。彼女の息遣いがダイニングに響いている。
「……バカじゃないの? 頭の文字を縦に読むと一つの文章になって。それだけじゃなくて文末の文字も縦に読むと一つの文章になっている。何でそんなことをするのよ。何で?」
「直接言うと……恥ずかしい」
「……バカ」
「それに……そんなことを言うような雰囲気でもなかったし……」
「私が気付かなかったら、どうするつもりだったのよ?」
「それは……仕方がないこととして諦める……」
「……バカ。……バカ。……バカぁ!」
「すまない、謝るよ。でも……俺は……君が好きだ。好きなんだ。だから……この村に残ってくれないか」
俺の言葉に、彼女は再び視線を逸らせた。そして、手の甲で何度も涙を拭う。
「……き」
「え?」
「だから……」
「……何だい?」
「私も……あなたが……好き」
俺は無言でヴァシュロンを抱きしめた。とても……とても軟らかかった。体の奥底から、幸せな感覚が湧き上がってくる。
彼女は俺の胸の中で泣き続けている。時おり、嗚咽とともに体が震えている。その背中を優しく撫で続ける。
ゆっくりと彼女の体が俺から離れた。彼女は目を真っ赤にしながら、じっと俺に視線を向ける。
「一つ、聞いていい?」
「何だい?」
「あの文章……。いつ考えたのよ? もしかして、ずっと前から考えていたの?」
「まさか。昨日だよ」
「昨日?」
「お昼に君を尋ねて帰って来て、そこからすぐに作ったんだ」
「じゃあ、そこから朝までかかって作ったの?」
「いや、三時間くらいかな」
「……」
彼女は呆れたような表情を浮かべている。
「ヴァシュロン」
「何?」
「お願いがあるんだ」
「何よ?」
「俺と、結婚してくれないか? ずっと、俺の傍に、居てくれないか?」
彼女の目がゆっくりと開かれていく。そして、再び俺から視線を外した彼女は、ゆっくりと俺から離れていく。
三歩ほど下がっただろうか。俺の手の届かない距離まで彼女は離れてしまった。このパターンは、もしかして……。
そんな俺の心配をよそに、ヴァシュロンはスッと右手を自分の胸に当て、背筋を伸ばした。
「ヴァシュロン・リヤン・インダーク。謹んで……お受けいたします。末永く、お願い申し上げます」
そう言って彼女は頭を下げた……。




