第百六十八話 裏の裏を読め
俺は深いため息をついていた。人間は、想像を超えた出来事が起こると、言葉が出てこなくなるようだ。
それは、突然のことだった。夕食の準備をしていると、突然屋敷の玄関がけたたましく叩かれ、野太い男の声で俺の名前を呼ぶのが聞こえた。何事かと思ったが、男はインダーク帝国皇帝からの使者だと名乗った。訝りながら玄関を開けると、精悍な顔つきをした男が立っていて、皇帝陛下からの親書であると言って、高価そうな箱を俺に手渡し、まるで風のように立ち去ってしまったのだ。
その箱には、一通の書簡が収められていた。言うまでもなく、先日俺が送った書簡の返事だ。俺はクレイリーファラーズと共に、それを開いて一読する。
……そこには、俺の出した条件を全て受け入れると書かれてあった。
まさか、ここまでコトが上手く運ぶとは思わなかった。当然、相手からは何らかの条件や反論があるだろうと予想していたし、何らかの接触があると考えていたのだが、蓋を開けて見れば、拍子抜けがする内容だった。
書簡には、俺が提案した不可侵条約の締結を急ぎたいとあり、その締結場所を指定して欲しいとあった。
「……これって、俺が決めないといけない?」
「別にあなたが決めることはないでしょう。これは国と国との話し合いなのです。こういうときこそあの、変態兄貴の出番じゃないですか。この手紙をそのままあの変態野郎に送ればいいと思いますよ?」
「そうですか。わかりました」
そう言って俺は、インダーク皇帝からの書簡を箱に仕舞った。
次の日、早速、俺はシーズとインダーク帝国宰相に向けて手紙を送った。シーズには、これまでの経緯を説明し、帝国皇帝から書簡が来たことを書いて、それを同封しておいた。一方のインダーク帝国の宰相については、締結場所を追って連絡するから、それまでしばらく待っていて欲しいと、こちらは、ごく手短に書いた手紙を送っておいた。
それが終わるとすぐに、ヴィヴィトさん夫婦とレークがやって来て、その直後に、ヴァシュロンとパルテックも連れ立ってやってきた。俺は二人に皇帝から手紙が来たことを告げ、色々と知恵を貸してもらったことについて礼を言った。
インダークに書簡を送るに際して、ライオネル・リエラではなく、宰相宛に書簡を送るように勧めてくれたのは、ヴァシュロンだった。リエラに送れば、おそらくかなりややこしいことになるだろう。それを避けるために、「敵の敵は味方」の格言通り、リエラに敵対する勢力、しかもその長に送れば、スムーズにコトが運ぶだろうと彼女は言ってくれたのだ。
何より決め手となったのは、宰相の人柄だ。リエラと違って宰相は人望のある人なのだという。自分の思い通りにならないからと言って、自分に協力してくれないからといって仕事を投げ出したり、人に責任を押し付けたりする人ではなく、基本的には穏やかな人物であるという点に、俺はこの人を信用することにしたのだった。
提案が全て受け入れられたことについて、ヴァシュロンは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、やがてホッとした表情を浮かべた。
「やはり、宰相様に手紙を出して正解だったわね」
「ああ、まさか、皇帝からの書簡が返ってくるとは思わなかったよ」
「バカね」
そう言って彼女は、フッとため息をつく。
「宰相様が手紙を出しているに決まっているじゃないの」
「え? 手紙を持ってきた兵士は、確かに皇帝陛下からの書簡、って言っていたぞ?」
「そう言わせているのよ」
「何だって?」
「勘違いしないでね。確かに、この手紙は皇帝陛下の許可を受けて送られているわ。でも、陛下が直接命じたのではないわ。間違いなく、この手紙は宰相様からのものよ。だって、考えてみてよ。皇帝陛下からの書簡を発行するのに、一体どのくらいの日数がかかると思う? 少なくても二週間はかかるわ。こんなに早く返書が返ってくるなんて、あり得ないことよ」
「と……いうことは?」
「宰相様も狸ね。おそらくこれには、皇帝陛下からの書簡という言葉の裏に、早くこの問題を解決させたいというメッセージを込めているのよ」
「どういうこと?」
「だから、皇帝からの書簡と聞けば、大抵はその書簡を国の権力者……少なくとも、宰相クラスの人物に渡そうとしない? 国と国の話になるから、一領主では解決できない問題になるでしょ? まさか……まだ、その書簡は持っているわけ?」
「いいや。君が来る前に、朝一番で兄のシーズの許に送った」
「それでいいわ」
「なんだか……宰相の掌の上で踊らされている気がするな」
「それでいいのよ。能力のない者は、宰相様の掌で踊ることすらできないわ。あなたは、それだけの才覚があるということだわ。でも……ちょっと素直すぎるかしら? 貴族の黒い、汚いマネをして欲しいとは思わないけれど、もう少し、裏の裏を読むことを覚えておいた方がいいかもね」
「素直すぎるかな……」
「じゃあ聞くけれど、宰相様からの書簡の写しは取ったの?」
「……いいや」
「そこよ。あなたのお兄さんを信用していないわけじゃないけれど、下手をすれば、宰相様の手紙の内容が変えられてしまう可能性があるわ。文言を追加されたりしてね? じゃあ、その原因となったのは誰? ってなると……」
「うええ……怖ぇぇぇ」
マジでビビる俺を見て、ヴァシュロンはクスリと笑う。その彼女を隣にいたパルテックが窘めている。俺はその様子を見ながら、胸の中に沸き起こる不安を必死で押さえようとしていた……。




