第百十話 年寄りの智恵
結局、ノーイッズ女史は顔面蒼白のまま、俺の屋敷を後にしてしまった。帰り際、彼女はレークを一瞥し、汚らわしい……と一言呟いて、玄関に向かった。俺はさすがにそれは言っていい言葉ではないだろうと言おうとしたが、ハウオウルが静かに首を振っていたのが目に入り、彼女を追うことをあきらめた。
「申し訳……ありません」
レークが消え入りそうな声で謝っている。どうやら、この会談が不調に終わったのは自分の責任だと思っているようだ。
俺はゆっくりとレークに視線を移す。彼女はショックを隠し切れず、申し訳なさそうに俯いている。確かに、いきなりあんな暴言を吐かれて平気なわけがない。俺は彼女にどう言葉をかけていいのかが分からずにいたが、その気持ちを察してか、ハウオウルが口を開いた。
「お嬢ちゃんが謝る必要はないぞい。それにしても、エライ言われようじゃったの?」
フォッフォッフォッと優しげに彼は笑う。それを見たレークはニコリと笑顔を作るが、耳がフニャっとなっている。明らかに彼女が傷ついている証拠だ。
「放っておけばいいのです。あんな女」
クレイリーファラーズが言葉を続ける。それを聞いてハウオウルが驚いた表情を浮かべながら、少し声を張り気味に言葉を返す。
「お姉ちゃん、ええこと言うのう! まさにその通りじゃ!」
ハウオウルはうんうんと頷きながら、満足げな表情を浮かべる。彼はレークの前にしゃがみ、まるで抱きかかえるようにして、優しく彼女に語りかけた。
「その……私……ご迷惑になるようでしたら……」
「迷惑なことなどありはせぬわい! ご領主がお前さんに暇を出さぬのが何よりの証拠じゃ。それとも何かの? ご領主はお前さんに折檻したり、暴言を吐いたりするのかの?」
その言葉にレークは目を見開きながら、ブンブンと首を振る。
「レークが迷惑だなんて思ったことは、俺は一度もないぞ。むしろ、俺の屋敷に来てくれて本当に助かっている。逆に、レークの働きに報いているのかが不安になるくらいだ」
「ほれ、ご領主もあのように言っておいでじゃ。お前さんが悪いわけではない」
「はい……」
「気にするな、と言っても、お前さんは優しい子じゃから気にするじゃろうな。うんうん、それがお前さんのいい所じゃ。そういうときにはな、こう考えなされ。あんなことを、相手に言わせないようにすればよいのじゃ」
「え……?」
「世の中は広い。良い人間もおれば、悪い人間もおる。悪い人間というのは、自分よりも劣る人間を見つけて、その人間をバカにして己の自尊心を満たそうとする。そういう人間がおるのは、どうしようもない事実なのじゃ。大事なのは、そういった人間の標的にならぬようにすることじゃ」
「はい……」
「悪い人間が狙うのは、どことなく弱々し気で、自信のなさげな人じゃ。お嬢ちゃんはいつもは元気ないい女の子じゃが、いざ、偉い人の前に出ると、弱々し気で自信なさげな雰囲気が出るのう。いや、お前さんの年齢でそれを克服しろというのは無理な話じゃ。じゃがの、そういうものは、心構え一つで変えることができるのじゃ」
「心構え?」
「うむ。アンタはご領主に信頼されておる。それに、仔竜のワオンにも懐かれておる。そんな女の子は、世の中広しといえどもお前さんくらいのものじゃ。そんなお前さんの価値が分からん人間はこちらから願い下げじゃと思っておくのじゃ」
「そんなことで……」
「人はの、言葉によってその人間性が変わっていくものなのじゃ。強い言葉を浴びて育った人間は強くなる。逆に、優しい言葉を浴びて育って人間は優しい人間になる。お前さんは、幼い頃から優しい言葉で育ててもらったのではないかな?」
「……」
レークはちょっと考える素振りをしていたが、やがて思い当たる節があったのか、ゆっくりと俯いた。このハウオウルの言葉には、俺も思い当たる節があった。確かに俺の両親は、俺を優しい子に育てようとしていた節があった。人にはやさしくというのがおふくろの口癖だった。逆に、この世界に来てからは、クレイリーファラーズが一緒にいることもあるが、割合に過激な言葉で包まれていた気がする。まあ、弱音を吐いていると死ぬ危険性もあったのもあるだろうが、前世と比べれば別人のようになっていると我ながら感じるのだ。それは確かに、言葉の力なのかもしれない。
「先生、そのお話、当たっていると思います」
「フォッフォッフォッ。まあ、年寄りの智恵じゃと思ってくれると、ありがたいの」
彼は満足そうにあご髭をなでていたが、やがてその視線をクレイリーファラーズに移した。
「お前さんの言っていることも、あながち間違いはないぞよ。自分のことをバカにする人間なぞ放っておけばよい。なんなら、そんな人間とは付き合わんほうがええ。逃げるというのも、有効な手段じゃの」
その話を聞いて、クレイリーファラーズの目がカッと開かれる。
「そうですよ! ジジイ、いや、あなたいいこと言いますね! だから私は今後、私を大事にしない人とは付き合わないことにします。シーズの変態野郎は金輪際会ってなどやりませんし、皆さんも、私を蔑ろにするようなことがあれば、私は一切付き合いをしませんから」
ドヤ顔のクレイリーファラーズ。俺はその顔を見て、大きなため息をつく。
「いつでも、出ていってもらって結構ですよ? 何なら、今日から出ていきますか?」
クレイリーファラーズの顔が、みるみる赤くなっていった。




