貴族と商人
今回すごく短いです。
アイーダ公爵家にも当然ヘンドリック脱走の一報が伝えられていたようで、公爵は登城していて不在だった。
御用商人として何度もこちらに来ているが、先触れなしという無礼を働いたことはない。そんな俺が突然来たって取り次いでもらえないとも覚悟していた。
「商会長が来たというのは、今朝の件よね?」
「はい」
ところが奥様との面会が許された。いつものように穏やかな笑みを浮かべているのはさすがだ。胆が据わっている。公爵夫人というのは格が違うのだな。
タナカ商会はケツをまくって撤退しているというのに、公爵家は揺るぎない。さすがは大貴族だ、これくらいではびくともしないか。
「タナカ商会は王都から撤退します。それをお伝えに参りました」
「そう……。それは、逃げるということかしら?」
笑っている奥様の目が冷たく光る。
母の顔じゃないな、公爵夫人の顔だった。
「戦略的撤退です。清く正しい方々に、一矢報いてやろうかと」
「まあ」
奥様が目を瞠り、ほほほほ、と上品に笑い出した。
「そうねぇ。おいたをする子にはお仕置きが必要よね」
「はい。草の根を食み、泥水を啜って生きてきた者共のしぶとさを、味わわせたいと存じます」
「良くってよ。それでこそターニャ・カーだわ」
何がツボだったのか奥様は上機嫌だ。
タナカ商会の撤退が王都の物価高騰を招くことをすぐさま理解したらしい。話が早くて助かる。
さらにいえば国王陛下が爵位を与えたターニャ・カーが、身の危険を感じて商会ごと王都を出たとなれば、陛下の顔に泥を塗ったことになる。なにしろ俺の叙勲は陛下の肝いりなのだ。
「あんな男と縁があったなんて、どこまでクラリッサを辱めれば気が済むのでしょう」
ピタッと笑い止んだ奥様が怒りを滲ませた。
「苦労が足りないのです。それなりに悩んではきたのでしょうが、他人に甘やかされていた。甘やかされていたことにも気づかないほどそれは当然だった。さりげなく助けられていても、気が付かなければ感謝などしません」
そういうところが貴族と商人の差だよな。そうした気づかいに気づかない鈍感さでは見捨てられて終わりだ。貴族は逆に、恩着せがましいと思わせたらアウトになる。そのさじ加減が非常に面倒くさい。
「……では、その足りない方々はどう動くとお考えかしら?」
「自分たちを正当化し、担ぎ上げるために件のお嬢さんを救出するでしょう」
「彼らはお尋ね者よ?」
奥様の疑問に首を振った。残念ながら、そういう問題ではないのだ。
「彼らにとって、オデットはあくまで聖女なのです」
ピンと来ていない顔だった。
「聖魔法を使えなくても、悩みが解決していなくても。自分の苦しみに共感し、寄り添ってくれた存在なのです」
「まるで……母親のように?」
「そうです、聖母ですね。それが近いと思います。彼らにとって、聖女は常に正しい。間違っていると言う人こそが間違っている。ならば、目を覚まさせてやらなくてはなりません」
「……洗脳」
ぽつりとつぶやいて奥様は震える唇を指先で押さえた。
「人は誰でも悩み、迷います。その選択を『正しき者』に任せてしまうのは、楽でしょうな」
「…………」
プレッシャーから逃げたい、と思うのは俺にだってある。逃げるのが必ずしも悪いとは思わない。自分の人生なのだ、好きなように生きて何が悪い。
それでも逃げた先に何があるのかは考えるべきだ。新たに道が拓けるか、崖から転落するのか。
コンコン、とノックの音がして、奥様が「どうぞ」と応じた。控えていたメイドがドアを開ける。
執事のセバスチャンが優雅な動作で手紙を持ってきた。俺がいるとわかっていて持ってくるとは、よほど緊急の用件だろう。
一読した奥様が短いため息を吐き、皮肉げに笑った。
「あなたの言うことが当たったわ」
――ヘンドリック・ポターがディグ監獄を襲撃、元聖女候補オデットを脱獄させた。
王室に献上したタナカ商会の上質紙には、乱雑な一文が書かれていた。




