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平和な宿の夜3

 時間は、少しだけ遡る。


「うわ~! すっごい!」


 キールと別れて階下の温泉に向かった私は、脱衣所を目にして感嘆の声を上げた。

 板張りの床、脱いだ服をしまうために壁沿いに設置された棚、お風呂に続く引き戸の前に置かれた足拭きマット……

 そこには『異世界』にそぐわない、日本式温泉の脱衣所があったのだ。

 絶対に二代前の聖女様が温泉の建設にも関わっている。脱衣所を見た私はそんな確信を強く抱いた。

 キールが温泉卵もあるって言ってたよね。明日、食べられるといいなぁ。

 衣服を脱いで布で体を隠しつつ引き戸を開けると、そこには広々とした露天風呂があった。

 繁った木々が目隠しと同時に、その場の風情を醸し出す役割も果たしている。たっぷりとお湯を蓄えた岩風呂は、柔らかな白い湯気を立てていた。

 濡れた床で転ばないように気をつけつつ進み、洗い場で体を擦って、檜っぽい木材でできた風呂桶を使い泡を流してから湯船に足先を入れる。

 するとじぃんと痺れるような、懐かしくて愛おしい感覚が肌に伝わった。

 温泉の温度は少し高めで、熱いお湯が好きな私の好みに合っている。


「っはぁ。気持ちいい……!」


 湧き出る気持ちを口から零しても、温泉は貸し切り状態だから恥ずかしくない。

 この広い湯船を私だけで堪能できるなんて、なんて贅沢なのだろう。

 肩まで湯船に浸かって、お約束とばかりにタオルを頭に載せる。

 見上げれば漆黒の空に二つの月とたくさんの星々が浮かんでいて、それは夢みたいに綺麗な光景だった。


「キールにも、あとでオススメしよう。うん」


 このお宿には内風呂もあるそうだけれど、この空を見たらどうやったって外風呂をオススメしたくなる。

 この解放感と気持ちよさを、キールにも体験してほしい。

 そして『気持ちよかったね』って、他愛のない話を彼としたいのだ。

 そんなことを思いながら部屋へ戻ろうとしたら、部屋の前でキールと鉢合わせ……


 ──私はなぜか、彼に抱きしめられた。


「キキキ、キール!?」


 驚き声を上げてもキールは離してくれず、抱きしめる腕の力は強くなっていく。

 いつだって接触過多なキールだけれど、これはあまりにも唐突だ。


 もしかして……なにか嫌なことがあったのかな。


 少し心配になりながらふわふわの紫色の髪を撫でていると……キールの腕の力がようやく緩んだ。

 彼は身を離し、金色の瞳で私を見つめる。そして、少し眉尻を下げた。


「……ニーナ様、急に抱きしめて申し訳ありません」

「ううん。なにか……あったの?」

「いいえ、特になにも! ニーナ様が愛おしくて、つい抱きしめてしまいました」

「愛おしい? つ、つい!?」

「はい、ついです!」


 にこにことしながら言うと、キールは部屋の扉を開けてくれる。そして、中に入るようにと身振りで促した。


「つい……?」


 首を傾げながら部屋へと入り、椅子へ腰を下ろす。するとキールが布をマジックバッグから取り出し、まだ濡れている私の髪を優しく拭ってくれた。


「キール、そのうち乾くよ?」

「それだと、痛んでしまいます。よーく拭いてから、風魔法で優しく乾かしましょうね」


 キールの口調はいつも通りの穏やかで優しいものだ。だけど……

 壁に掛けてある鏡に映った彼の表情は、少しだけ暗いもののように思えた。

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