宵闇の女神
そもそも何故このような状況になったというのだろう。
初めての男性からの抱擁に動揺しつつ、どこか冷静な部分で考える。
恐らく相手は絹蘭と勘違いしているに違いない。しかも相手が皇子ときた。幼い頃から王宮に出入りしている絹蘭なら、皇子と知り合う機会もあっただろうが、恋仲にまで進展するものだろうか?
確かに紅家は星詠みの一族で、過去に何人もの星詠み姫を輩出してきた。過去に後宮入りした者は存在するのかまではわからない。
絹蘭ならどんな名家に嫁いでも大丈夫であろう。しかし星詠み姫になれば結婚は不可能だ。寿命を迎えて任を解かれるのが大抵だから、一生涯独身である。
それとも、ただの戯れ?
結婚することのない星詠み姫の候補となる娘。物珍しくて戯れに手を出してくる可能性は十分だ。
……でも。戯れではない気がするのは、そうであって欲しいという願望だろうか。
「絹蘭」
切なげな囁きが耳に掛かる。この武人然とした第二皇子からは、想像もしなかった甘い響きに少し驚く。しかし、骨ばった長い指折りが顎に触れた途端、我に返った。
顔を上向きにされた上、相手の顔が近付いてくる。経験のない更紗でも、何をされようとしているのか予想ができた。
「いけません……」
拒絶の声を上げるが、思ったように声が出ない。指から逃れようと顔を背けるが、ほんの僅かに角度を変えるので精一杯だった。一瞬皇子の動きが止まる。顎から手が離れ、よかったと安堵したのは束の間、今度は強い力で抱き締められる。
相手の鼓動すら感じるほど密着し、息もできないほどだ。
嫌だ……!
反射的に身を捩ろうとするが。
「すまない。少しだけ、このままで」
耳を掠めた声があまりにも切実で、つい動きを止めてしまう。
「すまない……」
自分よりも年上で、大きな男の人が、まるで縋るように自分を抱き締める。乞われているのは絹蘭だとわかっているのに、まるで自分が乞われているような錯覚を起こしそうだ。
でも、わたしは絹蘭じゃない。
皇子に対して、申し訳なくすら感じる。
ごめんなさい、絹蘭じゃなくて……。
せめてもの償いにと、そっと皇子の背に手を添えるが、一瞬背中が強張るのを感じる。不味かったかなと思っていると、ふと首筋に温かくて柔らかい感触に気が付いた。
「……っ、あ」
首筋に小さな刺激を感じた途端、これまで味わったことのない感覚が背筋を駆け抜ける。同時にそれを恐れる気持ちが湧き上がり、今すぐこの腕から逃れたい衝動に駆られる。
助けて!
「公理様」
突然上がった第三者の声に、皇子の拘束が緩んだ。
「何だ」
低い声で答えながら、ゆっくりと更紗から離れる。
「皇太子殿下がお探しです」
堅い少年の声が告げる。姿は見えない。貴人の御前ゆえ、木陰に姿を忍ばせているのだろう。
「……わかった。すぐ行くと伝えよ」
「はい」
少年が立ち去る気配を見届けると、皇子は再び更紗と向き直った。
「選定の儀、陰ながら見守っている」
再び静けさを取り戻した青の双眸で更紗を見つめると、振り切るように立ち去っていった。
まるで嵐のような出来事に、更紗はぼんやりと立ち尽くしていた。
一体どれくらいそうしていただろう。聞き覚えのある声が自分の名を呼んだような気がして、背後を振り返った。
「絹蘭様」
夜闇に溶ける漆黒の髪。神話の宵闇の女神が具現したのかと、一瞬錯覚する。
「探しましたよ。こんなところで油を売っていたのですか」
「慶、花さま……?」
ずいぶんと機嫌が悪そうだ。仕方がない、今夜の宴の主役でもあるというのに、長らく席を外してしまった自分が悪いのだから。
でも慶花の顔を見た途端、張りつめていたものが消えて、気づいたら地面にへなへなと崩れ落ちていた。
「どうされました」
慶花は駆け寄ると、へたり込んだ更紗の前に膝を折る。
何か言わなければと思っても、混乱して言葉が出てこない。しかも、さっきの出来事をどう言い表せばいいのだろう? 思い出しただけで恥ずかしく、また怖いという気持ちも拭えない。
「更紗殿、大丈夫ですか?」
耳元でそっと囁く。
「……っ」
無意識だった。助けを求めて手を伸ばし、目の前の細い肩にすがり付いた。
「更紗殿?」
「ご、めんなさい……」
声が震える。自分が震えているのだと、他人事のように自覚する。
駄目だ。ほら慶花が困っているではないか。でも彼女の温もりから離れがたく、離さなければならないと思っているのに離れられない。
小さな溜息の後、少し声を和らげて慶花は訊ねる。
「……何があったのですか?」
「あ、の……」
心の整理がつかないままに口を開くと、やんわりと慶花が遮る。
「話すのが嫌なら無理に話す必要はありません」
「そういう、わけでは……ない、です」
「では、心を少し落ち着けてから」
「……はい」
離れろと言わないのをいいことに、そのまま彼女の肩をお借りしたままだ。丸みが欠ける細い肩に額を預けると、諦めたような嘆息が聴こえた。
慶花の手が背中に触れる。一瞬背中が強張る。しかしその手が、あやすような仕草で背を叩き始めると、ゆるゆると力が抜けてくる。まるで小さな子供にする仕草だと思ったが、実際心地よく感じるのは事実だった。
身体の震えがいくらかましになると、更紗はゆっくりと身体を起こした。
「ありがとうございます……少し落ち着きました」
「それはよかったです」
慶花は薄く微笑む。さっきまで身体を預けていたのかと思うと、女の子同士でも少し気恥ずかしい。
恥ずかしさを誤魔化すように、更紗は語り出した。
「実は……さきほどまで、第二皇子の公理様がこちらにいらしたのです」




