夜の庭園にて
数刻後、更紗はひとり庭園に逃れていた。
一体何人の人達と挨拶を交わしたたろう。
あらゆる肩書きを持った高貴な面々。申し訳ないがあまり顔を覚えていない。記憶に残るのは、目に鮮やかな色彩に身を包んだ衣。そして衣から香る甘い匂い。歯の浮くような賛辞の言葉。羨望の眼差しに隠された刺ある視線。
華やかさに潜む影。宮廷楽士たちの奏でる軽やかな旋律が空々しく感じるほどの数々の茶番劇が、広間では繰り広がれていた。
やっぱりわたしには、星詠み姫なんて無理だ。
星詠みだけができればいいわけではないらしい。星詠み姫は社交性も必須のようだ。もっとも、肝心の星詠みすら出来ないのだから、所詮自分には無理な話なのだ。
しどろもどろの更紗の隣で、慶花は臆することなく、堂々と振る舞っていた。話術もなかなかのもので、相手の振る話題にそつなく答えるだけではなく、時折冗談を交えながら相手の懐に入っていく。
元々絹蘭も口数が少なかったお陰で、さほど周囲に違和感は与えていなかったようだ。だが、あまり長い時間いては誤魔化すのも難しくなってくる。
隙を見て抜け出してしまったが、慶花が腹を立てていないか少々不安になるが、ようやく一人になれたという安堵は誤魔化せない。
「……疲れた」
やっと見つけた陶器の椅子に腰を下ろすと、小さな溜め息は喧騒から離れた静寂の中では、やけに大きく響いた。
広間の楽の音が遠い。風もなく、穏やかな空気で満たされている。木々の隙間から落ちる月明かりが、柔らかく手元を照らす。
ぼんやりと涼やかな夜気に身を委ねたのも束の間、不意に感じた気配に身構える。
「今日の主役がこんなところでどうされた」
気遣うような若い男の声。声の主は更紗の前に姿を現した。背が高く、武人然とした黒衣の青年の姿に、更紗は息を呑んだ。
今日の宴で会ったのだろう。絹蘭を知っているのだから、それは確かだ。しかしあまりにその人数が多くて、どこの誰だから記憶していない。己の記憶力の甘さが恨めしい。
「……気分がすぐれないので、少し休んでおりました」
後で慶花に確認しておこう。当たり障りない返答を口にしながら曖昧に微笑む。
顔を知っている程度なら、このまま立ち去ってくれるだろう。しかし、更紗の期待は見事に裏切られた。青年は静かに更紗に歩み寄ってきた。
まるで金属のような灰色の髪、端正な顔立ち。冷たい海の色をした双眸は思わず見惚れるほどだ。装束も黒ではなく深い青。青年の瞳と同じ色をしていることに気づく。
思い出した。この方は……。
対等に口をきいてはならない人物だと、ようやく思い出す。
軍隊の人だ。しかもそれだけではなくて……若くして近衛兵の軍隊長を務めるのは……第二皇子の公理様だと聞いている。
目を合わせるのも不敬だと気づき、慌てて目を伏せ、地面にひれ伏した。そのまま立ち去るのを待っていたが、皇子は立ち去ってはくれなかった。
「やめてくれ」
苦し気な声に、不敬を忘れて伏せていた目を思わず上げてしまう。蒼い双眸が射るように更紗を見つめていたが、目が合った途端、鋭いと感じていた瞳が、ふと和む。
どくん、と心臓が音を立てる。
強い力で手を引かれると、そのまま腕の中に閉じ込められた。
あまりにも自然な動作だったせいだろう。一連の動きがあまりにも自然で、抗うのを忘れて茫然とする。
頬に滑らかな絹の感触。涼やかな香の匂い。背に回された大きな腕の感触。堅いけれど温かな胸。耳を掠める微かな吐息と、意外と柔らかい髪の感触。
な、なに……この状況。
更紗は心の中で悲鳴を上げた。




