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第五十三話 君に見せたかったもの

「槍と奥穂はどっちが難しいか」


 登山者の間でしばしば語られるトピックだ。

 槍ヶ岳も奥穂高岳も共に北アルプスを代表する名峰である。

 山頂近くが険しい岩稜なのは共通している。

 正直どちらも難しいと思う。

 強いて違いを挙げるなら。

 槍は梯子の連続による高度感を自分の中で飼い慣らせるか。

 奥穂は岩肌をトラバースするなどの横の動きと縦の登りのミックスを上手くこなせるか。

 この点くらいしか僕には分からない。

 登攀難易度的には似たようなものだろう。

 これら二峰より難しいのは剣岳しかない。


 "なんでこんなキツイことしてるんだか"


 何個目かの梯子を登り切る。

 左に登るルートがある。

 といっても幅20センチほどの岩棚だけど。

 ここに慎重に足を乗せ、横に這うように移動。


 "地上にいればこんな怖い目に遭わないのに"


 左手を伸ばす。

 手頃な岩をグリップ。

 OK、これを手がかりにして体を引き寄せ......成功。

 ここでいったん足を止めた。

 強風をやり過ごした。

 焦るな。

 頂上はすぐそこだ。

 体をじりじりと引き上げる。

 上半身が難所を越えた。

 視界が開けた。


「よし」


 思わず声が出た。

 山頂への稜線だ。

 少し前を根津さんが歩いている。

 ここからは岩登りはない。

 ガレに気をつけて歩けばいい。

 ゴーグル越しに前を見る。

 ああ、あそこか。

 奥穂高の山頂。

 この雄大な岩の塊の頂点だ。

 残り僅かの距離を縮めるべく、僕は歩き始める。

 空気が冷たい。

 一呼吸ごとに喉を痛めつけてくる。

 何か考えていたな。

 何だっけ、ああ。

 登山なんか何の為にしているんだって自問だ。


 "本当に何の為なんだろう"


 確かに登らなければ楽だ。

 遭難や滑落のリスクは無い。

 こんなに自分の体を痛めつけることも無い。

 頂上からの景観がご褒美としてあるとしても、それじゃ釣り合わないだろう。

 にもかかわらず、何故人は山に登るのか。


 "人それぞれじゃないかな、そんなの"


 風が邪魔だな。

 雪煙が巻き上げられ、稜線の向こうに消える。

 つられて東側を見下ろした。

 途端に景色に圧倒された。

 なんて高さにいるんだろう、僕は。

 周囲全ての山々を、いや、地上全てを見下ろせるじゃないか。

 こんな絶景の中を進んでいける。

 ぼろぼろの体に鞭打って僕は歩く。

 背中のサブザックの重さだけを感じながら。


 "こういう景色につられて"


 なんてチョロいんだろう。


 "自分の限界を試すために"


 そんな綺麗ごとじゃ済まないわけで。


 "山でしか充たされない何かがあるから"


 近い。

 物凄く近い。

 ニアピンと言えるぐらい、自分の胸に刺さった。

 きつい、辛い、危ないなどのネガティブワード。

 空気が美味しい、景色が綺麗だ、達成感があるなどのポジティブワード。

 その両方が答えだ。

 その全てが答えだ。

 そしてそのどちらも山でしか味わえない。

 他の何かでは経験出来ない。

 だからか。

 僕が今、ここにいるのは。


「松田さん、頑張れ! あとちょっと!」


 根津さんの声が聞こえた。

 右手を軽く上げる。

 この間にも足は前に進む。

 一歩ごとに冬の奥穂高の山頂が大きくなる。

 標高3190メートル。

 日本で3番目に高い場所。

 小さな祠のようなものが見えた。

 ああ、そうだ。

 穂高神社の嶺宮だっけ。

 山頂の一番高い岩に建てられているんだ。

 そこまであと10歩もないな。

 こんなボロい姿で神様には申し訳ないけど。

 頑張ったから、きっと許してくれるさ。


 足に最後の力を込めた。

 残り3歩の距離を一気に詰め切った。

「おめでとう」と言う根津さんに頷く。

 嶺宮への短い石段に足をかけた。

 やったぞ。

 名実ともに登頂だ。


「やった......」


 安堵感と達成感が小さな呟きとなる。

 ここから周囲360度全てが見渡せる。

 雪に眠る北アルプスはどこまでもどこまでも広く、山の懐が深い。

 打ち寄せる波のように山がある、と誰かが言っていたっけ。

 見下ろせば涸沢が見えた。

 こんなに小さく見えるのか。

 涸沢ヒュッテや涸沢小屋がまるでジオラマだ。

 あんなサイズに見えるんだな。

 僕は今、とんでもない高さに到達しているんだ。

 背後を見る。

 虚空を隔てて槍ヶ岳の山頂が見えた。

 槍の穂先とはよく言ったものだ。

 天に向けて突き立てられた鋭い切っ先。

 北アルプスのアイコンとして余りにも有名な姿。

 だが、あそこより僕の立つ位置の方が高い。

 子供じみた自慢だけど今だけは許してほしい。


 "そうだ"


 石段を降りサブザックを開けた。

 中から赤い革表紙の手帳を取り出す。

 もどかしく最後のページを開いた。

 小泉の日記。

 何度開いたか分からないページ。

 そこに書かれた一文。


「皆で最後に冬の奥穂高に登れたらいいな」


 小泉の声が聞こえた気がした。

 聞こえるはずのない懐かしい声が――聞こえた。

 こみ上げる感情に胸が詰まる。

 気がつけば僕は泣いていた。

 ゴーグルをしていて良かったと心から思う。

 根津さんや後から来た佐藤さんご夫妻に見られたら恥ずかしいし。


 小泉、見ているか。

 天国からこの絶景を見ているか。

 これが冬の奥穂高だ。

 君が皆で登れたらと思っていた冬の奥穂高だぞ。

 登ったのは確かに僕だけどさ。

 このネックウォーマー、宏樹と森下と桜井から貰ったんだよ。

 それだけじゃない。

 三ッ瀬が日本山岳会のことを紹介してくれたんだ。

 一緒に登る人がいなかったらきっと無理だった。

 死ぬかと思った瞬間もあったくらいだ。

 だから、何が言いたいかっていうと。

 この登頂は僕一人で成し遂げたものじゃない。

 君の日記をきっかけにして、皆で達成したものなんだ。

 もうあの頃には戻れないし。

 少しずつ皆のことも忘れていっちゃうかもしれないけれど。

 それでもこうして何かを残せたんだって、それだけは言える。


「ありがとう、小泉」


 胸の中の想い全てをこの一言に込めた。

 果てしなく続く山々の彼方へと僕は手を振った。

 ここからなら天国の君にも見えるだろうから。

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