第五十二話 アタック
浅い眠りと目覚めを繰り返した。
何時間眠れたのかはっきりしない。
どちらにせよ熟睡は期待していない。
それでもコンディションは予想より悪くなかった。
"朝か"
寝袋から這い出す。
テントの外が薄っすらと明るくなっている。
恐る恐るテントの入り口を開けた。
空の色はグラデーションがかっている。
夜が朝に変わりゆく瞬間。
もうすぐこの辺りがモルゲンロートに染まるだろう。
自分の周囲なので逆に見えないだろうけど。
そうだ、根津さんと佐藤さん達は。
「おはよう。眠れましたか」
先に佐藤さんの旦那さんに声をかけられた。
きまりが悪い。
慌てて「おはようございます。ええ、ちょっとは」と返した。
「それは良かった。一睡も出来ない人もいるので」
「そうなんですか。奥様は?」
「寒いからと言って寝袋にこもっている。そろそろ動き出すだろう」
顔に疲労は残っている。
でも声には張りがある。
この標高での睡眠に慣れているのだろう。
その時反対側から声をかけられた。
「おはようございます。やあ、何とか天気には恵まれましたね」
根津さんだ。
こちらも普段とあまり変わらない。
淡々としているのはいつものことだ。
返事をしながら、根津さんの背後へ視線を移した。
ごつごつした岩の塊がそびえ立っている。
東側半面だけに朝日が当っていた。
温かみのあるピンク色と黒い岩肌が印象的なコントラストを成している。
根津さんも僕の視線を追う。
「いよいよですね」
「はい」
短く答えた。
佐藤さんの旦那さんも頷く。
「うちのもそろそろ叩き起こしましょう。あまりゆっくりしていられませんし」
寒風が声の最後を掠め取った。
このままだと凍えそうだ。
根津さんの「では早急に。ザックとテントはここに置いてアタックします」という言葉に従った。
テントの中に戻る。
山頂へのアタックには荷物はほとんど必要ない。
往復で90分くらいだろうか。
行動時間が短いので、重い荷物はここに置いていける。
だから最低限のものだけでいい。
僕の持っていくものは決まっている。
時刻は6時40分。
天候、問題なし。
風、時折吹くが強くはない。
穂高岳山荘の側に立つ。
登る前に周囲を一望した。
冬の朝の北アルプスが視界に入った。
何て広く、大きな山域なんだろう。
純白の雪が薄いベールとなっているようだ。
遥か下方の木々も雪に埋もれている。
ここからの景色だって十分に美しい。
でも違う。
僕達は更に一段高い場所から見下ろそうとしている。
今、これから奥穂高の山頂へと登って。
穂高連峰の主峰、奥穂高岳。
その標高、3190メートル。
僕らの立つ場所からあと90メートル上にある。
僅かな標高差に見える。
だが、これを90メートルの高さのビルを登ると置き換えてみれば?
このビルに階段は無い。
外壁をよじ登るしかないとすると?
もちろんつるつるの壁を登るわけではない。
岩なので足場は何とか確保出来る。
随所に梯子や鎖もある。
それでも相当の高度感に晒されての登攀だ。
この最後の最後で奥穂登頂を断念する人も少なくない。
僕ら四人もそうならないとは限らない。
「では私がトップで行きます。松田さんが私の後で」
「分かりました」
昨日と同じだ。
根津さんが一番手で登るのが最適だろう。
梯子や鎖があるため、今日は全員ハーネスとロープは外している。
あっても使う暇が無い。
僕の後は佐藤さんの奥さん。
最後を佐藤さんの旦那さんという順番になった。
「誰か落ちてきても止められないので。頑張ってください」と旦那さんが真面目な顔で言う。
ジョークにしようと思ったのかもしれないが、滑っている。
いや、別にいいか。
今ここで滑っておけば、登攀の際に滑らなくて済みそうだし。
根津さんがゆっくりと岩に取り付いた。
すぅっと右足から動く。
始まった。
滑らかな動き。
慎重にゆっくりと、だが確実な動き。
目で追い、動作とルートを脳裏に焼き付けた。
「行きます」
僕の番だ。
右足から同じように岩へ乗せる。
よし、最初の一歩は上手くいった。
続いて左手を上に伸ばして。
この岩をホールドして、体を預けて。
迷わない。
集中出来ている証拠だ。
次にどの手足をどう動かすか。
頭の中で数手先まで組み上がっている。
そこは問題ない。
問題があるとすれば外的な要因だ。
"息があがる"
時折呼吸が荒くなる。
仕方ない。
それだけ酸素が薄い。
梯子を登る途中で立ち止まる。
数度深く大きく息を吸う。
吐く。
どうにか息苦しさは消えた。
だが冷たい空気が喉を痛めつけてくる。
咳が出そうになるのを我慢した。
咳の瞬間、バランスを崩すのが怖い。
つい足元を見てしまう。
"うっわ"
何にもない。
仮に梯子を踏み外して落下したとしよう。
受け止めてくれそうな岩棚など無い。
一度か二度、岩山にぶつかり吹っ飛んで一番下まで落っこちてしまうだろう。
僕を支えているのは梯子だけだ。
より正確に言えば梯子を掴む握力と梯子を踏む脚力、バランス感覚だ。
それが欠ければ――死ぬ。
"冗談じゃないぞ"
奥歯を噛み締めた。
恐怖で縮こまっている場合か。
大丈夫だ。
風のリズムを読む。
突風の際にはとにかく耐える。
風が収まった時に一段上へ。
ああ、そうだよ。
夏の奥穂は登ったことがあるんだ。
梯子はあの時と変わらないぞ。
雪が付着して滑りやすいといってもさ。
真上から踏みつけるようにすればいい。
斜めから入るから滑りやすいんだ。
よし。
また一段。
"怖いと思うのは高いからだ"
もしここが地上1メートルの高さだと仮定しよう。
梯子を登っているだけだ。
動作としては難しくない。
ここが標高3100メートル超だからだ。
落ちたら死ぬという恐怖感があるからだ。
惑わされるな。
動作としては簡単なんだ。
自分に言い聞かせる。
一挙手一投足に神経を張り巡らせた。
よし、やった。
最後の一段を越えた。
上半身を岩棚に乗せ、ずるずると這い上がった。
全身が梯子から離れる。
さすがにホッとした。
ああ、でもそれも束の間だ。
「次は鎖か」
呟きながらじりじりとにじり寄った。
足場は狭い。
補助のために鎖が斜めに取り付けられている。
ちょうど人間の胸元辺りだ。
鎖に頼り切るのはご法度だ。
体の重心が崩れてかえって危ない。
けれど鎖を使わないのも危ない。
普通に歩けない場所だから鎖があるんだ。
頼り過ぎない程度に使うのが正解。
あくまで補助だ。
"寒いな"
奥穂の最後の登攀は岩稜の北側を登る。
太陽はほとんど当たらない。
日影の中を黙々と登ることになる。
ホールドした岩や鎖、梯子が冷たい。
グローブ越しでも指の皮膚に突き刺さる。
それだけじゃない。
体全体を冷気が覆うようだった。
その冷気を振り払うように登る。
体力を振り絞る。
影の中を縫う。
もう少し、もう少しだ。
このきつい登りが終われば、山頂へ至るガレ場しかない。
そこまで行けば本当にあと一歩。
「っ、くっ」
危なかった。
右足が岩の上から滑りかけた。
雪のせいでスリップしたのか。
爪先が虚空にはみ出ている。
左手に鎖を掴んでいたから耐えきれたようなものだ。
もしこのままバランスを崩していたら。
冷や汗がこめかみを伝う。
いや、切り替えろ。
耐えたということは幸運だったということだ。
まだ運は尽きていない。
ポジティブに考えろ。
下を見る。
佐藤さんの奥さんが見上げている。
僕が滑りかけたのを見たのだろう。
安心させるため「大丈夫です」と声をかけた。
返事を待たずに、もう一度取り付く。
"落ちてたまるか"
右足。
さっきより更に一段階慎重に。
足の置き場をより緻密に考えて。
よし、これなら。
冷や汗を指で拭った。
見上げた空はとてつもなく透明な青色だった。
刻もう、あの空へ向けて次の一歩を。




