表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/54

第五十話 ザイテングラート その2

 登山をしていて思うことがある。

 人間の感覚などあてにならないということだ。

 急な山道を登っている時、まるで垂直の壁のようだと感じることがある。

 そんなわけはない。

 とんでもない急登でも斜度30度

 ほとんど垂直と思っても斜度35度。

 実際はこの程度だ。

 だから僕が今登っているザイテンも垂直なわけがない。

 錯覚だ。

 そのはずなんだけど。


 "前じゃなく上に登っている感が強い"


 そのせいだろう。

 積み重なった岩に手がかり、足がかりを見つけて登る。

 ザイテンも序盤は険しいながらも歩けた。

 大きく乗り越えるような場所は限られた。

 だが中盤以降はよじ登る動作に近い。

 両手両足を駆使して、じりじりと登っている。

 遅い。

 慎重にならざるを得ないので動作が遅いのもある。

 更に雪の影響も大きい。

 岩が見えづらいのだ。

 手で掴もうという時、足を乗せようという時。

 確認するためにどうしても恐る恐るになる。

 ここは駄目だという時にリトライ出来るように体重を残しての動き。

 その分、リーチは短くなる。

 そして実際にリトライを強いられることもある。

 くそ。


 "夏場ならいくらザイテングラートでも"


 速い人なら1時間。

 かなり遅い人でも2時間。

 取付きからのコースタイムは大体そんなものだ。

 だが僕はどうか。

 既に45分経過しているけど、3割も進んでいるだろうか。

 時間がかかればかかるほど、寒風にさらされる。

 防寒対策をしていてもあまり長時間だとまずい。

 標高は大体2900メートル超。

 気温は恐らくマイナス15℃を下回っている。

 寒くないわけがなかった。


 "いや、焦るな"


 自分をなだめながら左足を僅かに上へ。

 足がかりへとつま先を乗せる。


 "根津さんや佐藤さん達も同じペースなんだ"


 彼らは僕よりよほど山のベテランだ。

 その人達がこのペースで進んでいる。

 現状ではこれが限界なんだ。

 出来ることはやっている。

 動けなくなればもう駄目だろう。

 けれど上へと動けるならば。


 "根津さんのトレースを追え"


 根津さんは僕より先行している。

 その一挙手一投足をしっかりと脳裏に刻み込んでいた。

 あの動きを真似てトレースする。

 実際に岩を見ればいい。

 雪の上に僅かに指や足の跡がある。

 バランスを保ちながらウェイトシフト。

 下を見るな。

 次のホールドと自分の動作に集中しろ。


 "こんな登攀は二度と無いだろうな"


 ヒリヒリする。

 バランスを崩せるマージンが無いに等しい。

 ちょっと左右に振られれば体勢が乱れる。

 2、3センチ足元が滑る程度ならぎりぎりセーフか。

 それ以上だと体勢は崩れるだろう。

 とっさの立て直しもこの足場では難しい。

 つまり、ほぼミスは許されない。

 震えあがりそうだ。

 その震えを抱えたまま、右足を動かした。

 うん、ここなら体重を乗せられる。


 "三ッ瀬のいる世界がこんな感じなのかな"


 じりじりと登る。

 登りながら考える。

 三ッ瀬か。

 あいつの場合はクライミングだから厳密には少し違うか。

 アックスを振るい、氷壁に無理やり手がかりを作る。

 そこを起点にして足を上げてアイゼンで蹴り込む。

 氷の割れ目にハーケンを打ち込む。

 そこにザイルを引っ掛けどうにかビレイする。

 ああ、どう考えても違うな。

 三ッ瀬の方がきつい。

 両手両足使って岩をよじ登る方がまだ楽だ。

 でもあいつは僕を馬鹿にしないだろう。


「松田は松田なりにやれることはやってるんだろ? それでいいじゃねえか」


 多分そう言いそうな気がする。

 他人がどうとかそういうことじゃない。

 自分が出来ること。

 自分が今直面していること。

 そこにどれだけ打ち込めるか。

 集中出来ているか。

 クオリティを分けるとすればきっとそれが大事だ。


 "登るぞ"


 集中。

 目を凝らし次のホールドを探す。

 風に耐え、姿勢をキープ。

 ああ、行ける。

 僕はまだ全然行ける。


「登るぞ」


 小声で呟いた。

 言葉が体を後押しする。

 何の為に登っているのか。

 何の為にここまで来たのか。

 自分自身の意地の為?

 小泉の残した願いの為?

 そのどっちでもあるし、どっちでも無い気もする。

 分からない。

 ただ一つ確実に分かっているのは。

 ここを登らないと次が無いということだ。

 思うことも、考えることも、何もかも。

 だから今、持てる全ての体力と技術を。


 "左足を10センチ上"


 ごく小さな岩だが乗せられる。

 ここに体重を乗せつつ、次の動作へ。


 "右手をやや斜め、左手に寄せるようにして"


 顔の斜め上あたりにちょうどいい手がかりがあった。

 根津さんもここを掴んでいたな。

 行ける。

 体がイメージ通りに動かせる。

 そうだ、これを起点にして動けば。

 右足、左手の順で更に上に動いて。

 左に50センチトラバース。

 そこから真上に登って、次は右。


 連続する岩場を睨む。

 睨みながら手足を動かす。

 ゆっくりとはいえ確実に。

 繰り返している内にルートが見えるようになってきた。

 根津さんのルートをトレースするだけじゃない。

 そのルートに自分で読んだルートを重ねて読める。

 自信が出てきた。

 技術的にはこれなら行ける。

 あとは体力か。

 さすがに息が上がり始めてきた。

 岩に身を寄せる。

 体勢を確保してからザックのサブポケットを開けた。

 レーズンを数粒取り出し、口に放り込む。

 冷たいなあ、これ。

 レーズンってもっと柔らかくなかったか。

 ああ、でも仕方ないか。


 "なんて景色だ"


 目線の高さには何も無い。

 遥か遠くに常念岳の山頂が見えるくらいだ。

 ここより高い場所なんて限られる。

 足元に視線を落とす。

 体が縮みあがりそうになった。

 涸沢まで、いや涸沢を通り過ぎてSガレあたりまで続く広大な斜面。

 落下すれば1000メートルは止まらない。


 その一点に僕はしがみついている。

 まるで点だ。

 この何も動かない雪と岩の世界の中に、ぽつんと僕がいる。

 背筋に冷たいものが走った。

 震えかけたのは寒さのせいだけではない。

 拳を作り足を叩く。

 グローブ越しの打撃だ。

 大した威力ではない。

 それでも二、三発殴ると少しは効いた。

 痛みの分だけ恐怖が足から押し出された。

 止まっている場合じゃないんだ。

 この偉大な山に挑んでいるだけでも大したものだ。

 いいか、もう少しだ。

 ザイテンをクリアすれば本当にあとちょっとだ。

 恐怖を。

 乗り越えろ。

 腹に力を入れる。

 岩稜を睨みつけ、ルートを見つける。

 ほら、次の手がかりが見えた。

 自分の感覚を信じろ。



 ――風が強くなってきた。

 ちらほらと雪も舞い始めている。

 足が痛い。

 さっき膝をぶつけたからだ。

 ただの打撲だ。

 それ以上のものじゃない。

 それでも引きずる程度には痛い。

 ああ、でも。

 ダメージはあるけれど、僕はやったぞ。


「頑張った! あと数歩だ!」


 聞こえる。

 根津さんの声だ。

 先行して待っていてくれた。

 体力を振り絞った。

 ふらついても安全な場所まで辿り着く。

 穂高岳山荘が目の前にある。

 そのすぐ奥からは奥穂高岳山頂への最後の登りだ。

 山荘の壁にもたれかかった。

 やった。

 何とかザイテングラートを踏破した。

 途中、風が強くて動けなかったこともあったな。

 だけど耐え忍んだ甲斐はあった。

 荒い息を吐き出し、その分だけ息を吸った。

 保温ボトルから紅茶を飲む。

 ようやく生き返った。

 そうだ、今は何時だろう。

 腕時計を見ると午後3時半を指している。

 3時間もかかったのか。

 ああ、いや、いいんだ。

 ともかく今はここまで来たことが重要だ。

 標高3100メートル。

 奥穂のまさに喉元に、僕は喰らいついているんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ