第四十七話 冬の穂高を仰ぎ見て
ほどなく本谷橋に到着した。
時刻は7時30分。
夏場ならこの辺りは良い休憩ポイントになる。
河原には大きめの岩が転がっており、腰掛けるのにちょうどいい。
くつろぎながら雪解け水による清流を眺められる。
けれども今は冬の真っ只中。
河原に下りる気にはなれなかった。
吊り橋を渡りながら下を見る。
細い川がちょろちょろと流れているのが見える。
流れのおかげでぎりぎり凍てつかないようだ。
佐藤さんの奥さんが「夏だとここは人が多いのよね」と言った。
旦那さんが頷く。
「登山靴を脱いで川の水で冷やしたりしたなあ。気持ちよかったね、あれは」
「雪解け水ですものね」
夏だからこそ出来る遊びだ。
今やったら血が凍りそうな気がする。
そうこう言っている内に本谷橋を渡り終えた。
「ちょっと時間ください」と声をかけ、スノーシューを外した。
底面積を広げて雪に沈むのを防ぐという構造上、スノーシューは角度のある地面に弱い。
ここからは無いほうがいい。
ただ、外した瞬間は閉口する。
足元の雪にずぼりと沈み込むからだ。
物理の実験を自分の体で行っているみたいだな。
根津さん達も同じようにスノーシューを外した。
同時に小休憩を取る。
3泊4日の長い行程だけに行動食もかなり持ってきている。
同じものばかりでは飽きるので、日によって変えている。
2日目の今日は飴にした。
口の中に入れてゆっくりと溶かしていく。
溶け切らない内に出発。
登りがじわりときつくなっている。
本谷橋までよりペースが落ちた。
雪が重い。
空から降ってくる時にはあんなに軽いのに。
地面に積もった状態だと何でこんなに重くなるのか。
本谷橋から涸沢までは距離だけなら遠くはない。
2.5キロくらいしかない。
平地なら40分も歩けば着いてしまう。
だが涸沢の標高は2300メートル。
ここより700メートル近く高い。
標高差700メートルはそれ自体が低山登山に匹敵する。
加えてザックなどの装備の重量。
冬山ならではの積雪。
遅くなるのは仕方ないことだ。
それでも僕達は着実に前進していた。
先頭の根津さんが言う。
「よく涸沢までなら簡単でしょうと初心者の人が言うけど、そうでもないんだ。これがね」
分かる。
自分も初心者の時にまさにそう思っていた。
穂高はともかく涸沢なんて観光地だろうと。
今から思うと完全に舐めていた。
自戒を込めて答える。
「上高地からなら標高差800メートルありますものね。これだけで立派な登山になる」
「うん。まあ道に迷いはしないだろうし、技術的に難しいところも無いけれどね。純粋に体力は必要だ」
そうなんだよなあ。
登山を初めて間もない頃、ありがちだ。
「憧れの北アルプスに行くぞ。まずは穂高の山々を見に涸沢まで行ってみよう!」と言い始める。
間違ってはいない。
考えとして間違ってはいない。
でも涸沢まで登るのも登山だということを忘れがちだ。
上高地がリゾート地なので涸沢もその延長と思っている人は多い。
"この登りを体験したらそんな甘い考えは吹っ飛ぶ"
雪を踏み締める。
自分の体を前、いや、斜め前に押し出す。
高度を稼ぐ動きが必要になっている。
雪の下に荒い岩の存在を感じる。
この辺りから道も土じゃない。
周囲の木々も低くなってきた。
その分だけ視界は明るい。
雪に覆われた穂高の稜線が見えた。
あれは北穂高岳だろうか。
天に向けて悠々とそびえ立っている。
標高3106メートル。
涸沢から北へ進路を取って登れば、北穂高へのルートとなる。
神々しさすら感じる。
奥穂とどちらが好きかというのは好みによるとしか言えない。
難易度は似たりよったり。
ただ、北穂の方が若干厳しいかもしれない。
急登に次ぐ急登を矢継ぎ早に強いられる。
奥穂なら稜線に出て穂高岳山荘で一息入れられるけど、それもない。
北穂高にも山小屋はある。
でも本当に山頂近くに立っているので、登頂前の休憩ポイントにならない。
そういう点を考えるとまだ奥穂の方が易しいかな。
僕は視線を巡らせた。
"奥穂はまだ見えないか"
ちょっと残念だな。
でもそれも時間の問題だ。
また歩行に集中する。
雪と氷に覆われた世界だ。
低くなってきた木々は葉が落ちてしまっている。
ナナカマドだ。
紅葉の季節なら濃い赤や黄に染まる。
秋の涸沢は本当に美しい。
谷全体が紅葉に染まる。
カラフルな絨毯が敷き詰められているかのようだ。
そのナナカマドも今はただ寒々しい。
黒っぽい枝には葉が一枚も無い。
でも何故だろう。
こんな殺風景な風景の中を歩いているのに。
不思議と嫌にはならない。
"四季を感じているからかな?"
それはある。
積もった白い雪はシンプルに美しい。
雪化粧をした穂高の山々は見応えがある。
いかめしい岩肌を白い雪が覆い尽くしている。
白色は神聖さと直結する。
純粋というキーワードもよく使われる。
冬の山が恐ろしいと言われつつ、どこか羨望と共に崇められる気持ちは分かる。
そこに山の神の存在を感じるからだ。
雪が聖なるメイクとなり、山を引き立てている。
冬には生き物が少なくなることも関係するのかもしれない。
何もかもが死に絶えた世界の中、山は雪をまとってそびえ立つ。
その姿に理屈を超えた畏怖があるのだろう。
"小泉が登ってみたいと言ったのは、そういう部分に惹かれたからかな"
さすがに自分の名前が夏穂だから、だけでは理由として弱いよな。
小学生じゃないんだからさ。
思い出してちょっと笑ってしまった。
脳内で小泉が「あっ、バカにしてー!」と怒った気がした。
四人で先頭を交代しながら歩く。
体力の温存が効くのはありがたい。
佐藤さんの奥さんも時々先頭に立つ。
女性だからといってキツイ仕事から逃げようとしない。
偉いなあとは思うけど、そう思うこと自体が失礼なのかもしれない。
山に登るにあたって性別は関係ない。
若かろうが年配だろうが、男だろうが女だろうが、山は厳然と立ちはだかる。
誰もが平等に登る権利がある代わりに、誰もが同じ義務を負う。
僕もこの義務を負っている。
その引き換えに登る権利を得ているんだ。
一歩一歩を積み重ね、小休憩の時間となった。
"このペースなら涸沢に着くのは......10時半過ぎか?"
周りを見ると少し周囲が開けた谷になっていた。
Sガレと呼ばれる場所だ。
その名の通り、S字にガレ場――岩の足場が広がっている。
とはいっても足元が雪なので分かりづらい。
ただ、こういうところで雪にダイブするのはお勧め出来ない。
下に何があるか分からないからだ。
調子に乗って大の字で雪にダイブ、結果、大怪我で雪を赤く染めかねない。
もっともそんなふざけたことをする余裕も無いけれど。
「Sガレまで来ると穂高がよく見えるねえ」
佐藤さんの旦那さんが明るく言った。
視線を追う。
ああ、本当だ。
足元に気を取られて気づくのが遅れた。
まだ遠いけれども穂高の山々が確かに見える。
遠目でも険しさが良く分かる。
切り立つような岩稜が高度3000メートルの風に晒されていた。
雪煙が舞っている。
北穂高も前穂高も、そして主峰である奥穂高も一度に視界に入ってきた。
まだ遠目だから圧倒される程じゃない。
だけどここからは段々とあの山々が存在感を増してくる。
涸沢まで行けばもっとよく見えるだろう。
昔見た奥穂高の峰を思い出す。
のしかからんばかりの巨大な岩山に圧倒されたっけ。
どれほどの質量があるのか想像もつかなかった。
"ようやくここまで"
冬の奥穂高に登ると決めて。
どうにかその足元まで辿り着いた。
背骨をぞわりと走り抜けるものがある。
恐怖か。
闘志か。
それともその両方か。
落ち着け。
山は逃げない。
「ここからはアイゼン装備します」
三人に一声かけて、僕はザックから10本爪アイゼンを取り出した。
そろそろ登りが急になる。
雪で足元が滑れば、無駄なステップを強いられるだろう。
本気で対処するタイミングだ。
きちんと登山靴にアイゼンを嵌め込む。
鉄の爪がガチリと鳴った。




