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第四十六話 2日目、横尾から出発

 存分に食べて体に活力も戻った。

 そうなるとあとは寝るだけだ。

 はっきりいって早い。

 まだ夕方5時を回ったところだ。

 とはいっても日は落ちているし、何より寒い。

「おやすみなさい」とお互いに挨拶をしてテントに引っ込む。

 電灯がないので暗い。

 ヘッドライトは持っているけど、あくまで緊急時のものだ。

 山では暗くなったら即寝るくらいでいい。

 ただし寝る前に最低限やることはある。


 "これをやっておかないと明日困るんだ"


 ヘッドライトを付けた。

 登山靴を脱ぎ、ザック、ハードシェルと共に並べる。

 ああ、やっぱりところどころ雪が付いているな。

 これを乾いたタオルではたき落とす。

 こうしている間にも寒気がじわりと忍び込む。

 我慢しながら根気よく雪を落としていく。

 放って置くと夜間に雪が凍りつくからだ。

 特に登山靴の中はまずい。

 寒いので登山靴は履いたまま寝る。

 その時、雪が靴の中にあるとどうなるか。

 雪が凍りつき、足元が凍傷になる。

 下手をすれば足の指の一本も失うことになりかねない。

 なので、これだけはやっておかねばならない。

 面倒でも命に関わる。


 ようやく終わった時にはすっかり体が冷えていた。

 一口だけ紅茶を飲む。

 さすがにもう冷めている。

 明日、もう一度お湯を沸かして淹れ直すことにしよう。

 登山靴を履いて寝袋に滑り込んだ。

 出来る限り着込んではいる。

 それでも寒さを防ぎきれない。

 体の中の熱を意識する。

 手足を縮め、なるべく丸くなるように。

 今、何℃だ?

 マイナス15℃くらいには下がっているかな。

 日が落ちるとこれくらいにはなるか。

 冬の上高地の夜だし。

 それでも絶望的に寒いわけじゃない。

 テントと寝袋、更に着込んだ防寒着でかなり外気をシャットダウン出来ているからだ。

 こんな寒さの中でもどうにか......どうにか眠れそうな......


 そこから先は覚えていない。



 目覚めの瞬間は緩やかだった。

 薄い霧がかかったような意識のまま、のろのろと首を回した。

 見上げると妙に青い。

 テントの内側かと気が付き、身を起こす。

 まだ日は出ていないようだ。

 腕時計を見ると4時20分。

 ずいぶんと寝たなと軽く驚く。

 10時間は寝ている計算になる。

 どれだけ熟睡出来たかは分からない。

 だが少なくとも体は軽い。


 "6時出発予定だったな"


 テントの片付けを考慮しても時間に余裕はある。

 寝袋から這い出し、テントの入口を開けてみた。

 昨日と変わらない一面の雪景色だ。

 森が白く眠っている。

 夜の最後の瞬間の中で息を潜めているかのようだ。

 天気は、いや、後で見よう。

 寒いのでテントの入口を閉じた。

 足首を回す。

 座ったまま肩をストレッチする。

 体に目覚めを意識させる。

 2日目。

 今日の行程を頭の中で復習。

 3泊4日の行程の中で登攀のメインとなる日だ。

 涸沢を経て、尾根まで登る。

 宿泊地は穂高岳山荘の近くとなる。

 標高は約3100メートル。

 横尾から約1500メートルほど上げていかねばならない。


 "頂上挑戦の明日より今日の方がしんどいかも"


 考える。

 考えながら体を緩く動かし続ける。

 しんどい?

 そうかもしれない。

 だけど分かっていたことだ。

 今さら動揺などしない。

 まったく知らないルートじゃない。

 夏場に登ったことはあるんだ。

 冬ではないけれど未経験者とも言い難いだろう。

 うん。

 僕は深呼吸した。

 冷たい空気が口の中から入り込む。

 咳込みかけてしまった。

 けれども頭の中は冷静になった。


 "動くか"


 朝食はそれぞれで食べることになっている。

 ザックを開いた。

 持ってきた携行食料を使おう。

 ビスケットを数枚、それとチョコレートでいいか。

 後はビタミン剤を少量摂取。

 短期間とはいえ泊まりありだと野菜不足になりがちだ。

 そのためこうしたサプリメントは助かる。

 さすがにこの朝食で味付けをどうこう言っている余裕は無い。

 必要な熱量が得られればそれでいい。

 熱量で思い出した。

 紅茶を淹れ直さないと。

 今日の分が無い。

 というか、体を温める為にも今飲まないといけない。

 僕は黙々と自分の体を整えていく。


 15分経過。

 ビスケットの粉一粒まで飲み下した。

 調子はいい。

 出発の時刻まで身の周りをゆっくり片付けていこう。



 まだ山は目覚めない。

 夏山と違い、冬山の朝は遅い。

 ようやく東の空の端っこが薄っすらと明るくなり始めたくらいだ。

 けれども僕達はもう歩き始めている。

 予定通り6時ジャストに横尾を出た。

 朝の挨拶をしてから皆、口数が少ない。

 分かっているんだ。

 標高差1600メートルを登り切ることの意味を。

 それも冬場の奥穂高で。

 空気の薄さもそろそろ無視出来なくなってくる。

 余分な体力は使いたくないというのも無理はない。


 歩く順番はまず僕が一番前だ。

 横尾大橋を先ほど渡った。

 緩い登りの登山道が樹林帯の中に伸びている。

 これくらいならまだスノーシューが使えそうだ。

 本谷橋の先からは傾斜がきつくなる。

 そこまではこれで行こう。

 ポールストックを突きながら歩く。

 昨日歩いた林道とは違うのが分かる。

 まだ緩い上りとはいえ、山の中へと分け入るような道だ。

 それでもまだ序章に過ぎない。

 体を慣らすように雪の上を歩く。

 速くもなく遅くもない。

 昨日より慣れているのが自分でも分かった。


「天気大丈夫でしょうか」


 歩きながら根津さんに聞いてみる。

 返事は即答。


「予報では大きくは崩れないらしい。ただ油断は出来ないね」


 落ち着いた声だった。

 きっと色んな山を登ってきたのだろう。

 長年の経験による判断は信じるだけの価値がある。

 この人は信用できる。

 急に猛吹雪にでもならない限りは対処出来るだろう。

 よし。

 自分に無言で喝を入れた。

 まだ周囲は暗く、ヘッドライトの明かりが頼りだ。

 昨日より雪が深い。

 膝を上手く使いラッセルしていく。

 まだ急な傾斜になっていない。

 スノーシューが使える内は大した労力でもない。

 集中して歩く。

 雪が積もった樹林帯を縫って、山に分け入る。

 そしてしばらく歩いた頃。


「朝日だ」


 僕はぽつりと呟いた。

 頭上の木々の枝が明るくなっていた。

 ちょうど僕らの背後からだ。

 蝶ヶ岳に遮られてまだ足元には届いていない。

 けれども暗がりの中を進むよりはよっぽどいい。

 青さを帯びた冬の森に僅かに光が差している。

 朝日に照らされた雪がきらきらと輝く。

 透き通ったような美しさに息を呑んだ。

 一瞬だけど寒さを忘れた。


 "行けそうな気がする"


 こんな綺麗な風景を朝から見ることが出来たんだ。

 きっと今日はいい日になる。

 足取りも順調だ。

 これなら本谷橋までは遠くないだろう。

 そこでスノーシューを外して、いよいよ本格的な登りが始まる。

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