第四十五話 ぼたん鍋で雪上晩餐
猪の肉は食材としてそこまでレアなものじゃない。
地方に足を伸ばせば普通に肉屋さんで売っている。
郷土料理でも食べることができる。
豚と同じ仲間なので、風味は当然豚肉に近い。
でも僕も自分では食べたことがない。
「お願いしちゃっていいのかい」
「好きでやってますから。問題ないです」
佐藤さんの旦那さんが気遣ってくれる。
でもまったく気にならない。
キャンプ用の鍋と食材を受け取った。
ビニール袋越しの食材の冷たさにむしろ安心した。
この寒さだ。
冷蔵庫で保管していたようなものだね。
鍋と食材を脇に置き、先にテントを立ててしまおう。
四人パーティーだから四人用の大型テントを1つでも良かったけど、今回は違う。
僕と根津さんがそれぞれ一人用のテント、佐藤さんご夫妻が二人用のテントだ。
初対面なので就寝中に気を遣うのは避けたいから。
他の山で雪上でのテント設立は練習しておいた。
その甲斐あって戸惑うことはなかった。
これも登山スキルの一種だ。
"ま、風が無いのが何より幸運かな"
風があると最悪だ。
ロープは中々結べない。
テントが揺れに揺れて作業がまるで出来ない。
今回の奥穂高山行は天候に恵まれている。
少なくとも今のところは。
明日以降も安定してくれればいいけど。
心の中で祈りながらペグを雪に打ち込んだ。
無事にテントは設立出来た。
中に入るとホッとする。
狭いとはいえ、プライベートな空間があるのはいい。
屋外、特にこういう山の中でぽつんと座っているのは不安を覚える時もある。
テントはそういう不安を和らげてくれる。
もちろん心理的な効果だけじゃない。
薄い生地とはいえ、防寒性能は無視できない。
まず一息。
保温ボトルから温かい紅茶を飲む。
砂糖が多めに入っているのはエネルギー補給の為だ。
うん。
体の中からじんわりと温かくなってきた。
元気が出たところで調理にかかろう。
鍋と食材をテントの中に引き込んだ。
調理といっても簡単だ。
食材が猪肉、ネギの2種類だけ。
ダシは固形スープがあるので、これを溶かせばいい。
むしろ面倒なのはお湯を沸かす作業だ。
ライターを取り出し、寒冷地仕様のガスカートリッジを取り付けたバーナーに点火する。
3回目でようやく点火した。
青い炎がポッと燃え、僅かに熱を感じる。
バーナーの上にそっと鍋を乗せる。
あとでぐらつくと怖いので、一番平らな場所を選んだ。
"電気ポットはここには無いもんな"
家にいる時とは違うんだ。
電気、ガス、各種の便利な家電製品。
そういった文明の利器が山には無い。
何をするにも一々手間がかかる。
お湯を沸かすために、バーナーを点火して、鍋に雪を入れて溶かす。
スイッチを押すだけとはだいぶ違う。
冬山を登山中の調理に求められるのは調理スキルじゃない。
こうした調理に必要な準備をやれるある種の忍耐強さだ。
そもそも服装が細かい作業に適していない。
インサレーションというテント内で着る薄手の防寒具を着ている。
登山時に一番外側に着るハードシェルよりは薄いけど、多少は動作が阻害される。
服が鍋に引っかかったりしないよう気をつけないといけない。
うん、でも。
不満はあったとしても、それを上回る面白さは確かにあるんだ。
大量に溶けた雪がじわじわ溶けていく。
冷たい水が下から炙られ、徐々にお湯に。
こうなると雪を入れてもあっという間にお湯になる。
鍋にそこそこのお湯が沸いたところで、食材全部を一気に投入した。
すぐに固形スープも放り込む。
猪の肉をぼたんと呼ぶらしい。
江戸時代に四つ足の獣を食べることが禁止されていたので、その隠語だそうだ。
なるほど、こうして見てみると頷ける。
猪の肉の鮮やかな赤色は、ぼたんの花弁を思わせる。
鮮紅色と言うのだろうか。
市販の豚肉はもっとピンクっぽいよな。
お湯の中に入れるとその赤色がさあっと変わった。
結構アクが出るな。
出来る限りおたまですくって捨てる。
肉とネギだけのシンプル料理だ。
アクで雑味が出ると味が濁る。
ことこと煮込む。
ああ、いい匂いだ。
テントの中に熱の通った食材の放つ匂いが広がっている。
メインはこのぼたん鍋でいいとして、これだけじゃ足りない。
フリーズドライのご飯があるので、締めにおじやにすると決めている。
量的にはこれで足りるだろう。
テントから顔を出して呼びかけた。
「出来ました。よかったら来てください」
さあ、温かい内にどうぞ。
根津さんも佐藤さんご夫妻もいい顔をしている。
最初の一口で顔がほころんでいた。
良かった。
雪の上で作ったシンプルぼたん鍋はどうやら成功のようだ。
「普通の豚肉より歯ごたえがあるねぇ。味も濃い」
「野趣溢れるというんですかね。ちょっとした癖が残っているのが逆にいい」
「この味付けは白味噌かしら。上手く猪の臭みを消しているわ」
三者三様でほめてくれた。
固形スープに白味噌味を選んだのは正解だったようだ。
鍋物用に今は色んな固形スープが売られている。
洋風にしようかとコンソメを選びかけたけど、食材が猪だからな。
臭みがあるかもと考えて白味噌にしたんだ。
僕もぼたん鍋を自分の食器によそう。
肉とネギを同時に頬張った。
ああ、なるほど。
これが猪の肉の味か。
肉質としてはちょっと固めだ。
でも噛んだ分だけ、肉の旨味が染み出してくる。
飼料で育った豚とは違うとぼたん肉が主張してくるようだ。
脂身も肉と一緒に口にする。
ちょっとしつこさがあるが、これはこれでいい感じだ。
ワイルドな旨味が舌に残る。
そしてネギが程よいアクセントになっている。
"まさに名脇役"
心の中で唸った。
ぼたん肉の独特の風味はともすれば鼻につく。
けれどもネギのおかげで後味がいい。
鍋全体で見ると味のメリハリがついている。
そしてネギ自体も程よい野菜の甘さがある。
白味噌風味のスープの中でネギがきちんと効いていた。
「美味いですね、これ」と唸ってしまった。
実際期待以上の味だ。
根津さんが相槌を打つ。
「うん、美味い。こんな美味いぼたん鍋が食えるのも松田さんのおかげだよ。明日に備えて元気がチャージされてきた」
「僕は適当に煮込んだだけなんで」
実際その通りなのだ。
料理の工程としてはとても簡単だった。
でも佐藤さんご夫妻も「堪能しました」と口を揃えて言ってくれる。
こういうムードで一日を締めくくれるのはいいな。
おっと、締めといえば。
フリーズドライのご飯を忘れていた。
「これを入れておじやにしましょう。肉と野菜だけじゃ足りないですから」
ご飯を入れてコトコト煮込む。
白い湯気がテント内に立ち込めた。
いい匂いだな。
適当なところで火を止めた。
おじやを全員分よそって早速一口。
――いやあ、やっぱり鍋の締めはご飯ものだね。
猪肉の旨味が溶けたスープを吸っているから、これが美味しくないわけない。
慌ててかきこみそうになるけど、なるべくゆっくりと食べる。
明日の夕ご飯は高度3000メートルでの食事だ。
ちゃんと調理できる保証は無い。
だからその分も踏まえて、このおじやは大事に噛み締めよう。
この一口が明日の登攀に繋がるのだから。




