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第四十四話 横尾までの雪道を行く

 上高地から槍ヶ岳、あるいは穂高の山々へ登るルートは登山者にとって王道だ。

 風光明媚な上高地をスタート地点とするので華やかな印象が強い。

 でも純粋に登山道として考えると欠点が一つだけある。

 いざ登りに取り付くまでが長いからだ。

 具体的には上高地から明神、徳沢、横尾までがほとんどフラット。

 10キロ以上延々とただ平坦な道を歩き続ける。

 これが退屈という人は多い。

 裏を返せば上高地〜横尾間は観光客でも歩ける遊歩道なのだろう。

 そして今、僕らもその平坦な区間にいる。

 なんということもない、そのはずなのだが。


 "冬だとやっぱり遅いか"


 歩き始めてから1時間。

 僕は軽く息を弾ませた。

 夏ならもう明神に着いている頃だ。

 だがまだ到着していない。

 原因ははっきりしている。

 雪だ。

 スノーシューを履いているとはいえ、土の道とは条件が違う。

 予想はしていたけどもどかしい。

 そこまで深い雪でもない。

 それでもある程度足が沈む。

 上げる分だけ時間がかかる。

 後は装備の問題がある。

 ザックの中には登攀用のアイゼン。

 夏山には不要のピッケル、スノーアンカーなどがザックの中にある。

 今履いているスノーシューだって追加重量だ。

 身軽さが損なわれているためスピードも落ちる。

 単純な理屈だ。

 ひたすら歩くだけのフラットな道だからこそ、速さへの影響を実感する。


「夏だともう明神に着いている頃なんですが」


「冬山だからね。仕方がない」


 根津さんになだめられた。

 佐藤さんご夫妻の顔は後方で見えない。

 多分、平然としていると思う。

 ちょうどその時、旦那さんから声が飛んだ。


「松田さん、交代しましょうか。私が先頭やりますよ」


「え、でもまだ行けます」


「まだ序盤です。無理は禁物」


 そう言われると断る理由も無い。

 確かに意地を張る場面では無い。

「じゃあお願いします」と言って先頭を譲った。

 最後尾に下がり、佐藤さんの奥さんと並ぶ形になる。

「頑張りましたね」と言ってくれたのは嬉しいけど、ちょっと後ろめたい。


「思ったほどガシガシ行けませんでした」


「そんなものよ。長丁場なんだし気楽に行きましょう」


「はい」


 人の歩いた後だと格段に雪の上を歩きやすくなった。

 踏み跡をなぞればいい。

 新雪の上を踏み固める動作がいらなくなる。

 せっかくだ。

 今は体力温存しよう。

 それにしてもだ。

 この雪と氷の樹林帯は得体の知れない怖さがあるな。

 何だか引き込まれそうな危うい魅力というか。

 色彩が単調なせいか、遠近感が狂わされるのだろうか。

 この辺りはほぼ高低さも無いし。

 ぶるぶると首を振る。

「雪女とか出そうですね」とわざと軽口を叩いた。

 佐藤さんは「そうねえ。出るかもしれないわね」と笑った。


「出るんですか?」


「もちろん昔話の中だけよ? でも科学が発達していない時代だと、いたんじゃないかしらね。その当時の知識じゃ自然現象が起きる理屈が分からないわけだから。それを妖怪のせいだと判断して、自分達なりに納得していたんじゃないかしら」


「ああ、なるほど。例えば雪女は吹雪の擬人化した姿ってことですか」


「そうそう。吹雪の中でビバークして低体温から幻覚を見る。中には綺麗な女性の幻を見た人もいたかもってこと」


「それを雪女と名付けたと」


 あり得る話かもしれないな。

 僕が納得した顔を見せると、佐藤さんは少し笑った。


「そうそう。だから雪女に嫉妬されるようなことしちゃいけないのよ。例えばそう。松田さんのそのネックウォーマー、彼女からのプレゼント?」


「え? これは違いますよ。冬の奥穂に行くって言ったら友人達がくれたんです」


 ネックウォーマーに触れる。

 紺色に白いラインが入ったデザインが気に入っていた。

 宏樹、森下、桜井の三人が合同でプレゼントしてくれたものだ。

 特定の女性からのものじゃない。

 さらっと説明しておく。


「山岳部時代の同期なんで。だから雪女も嫉妬なんかしないでしょう」


「ふふ、そうね。それならきっと見逃してくれそう」


 ほんとに頼むよ。

 プレゼントが原因で雪女に目をつけられましたなんて洒落にならない。

 でもこうして話しながら歩くのは気が紛れるな。

 同じ動作ばかりで刺激がないから。

 雪女の嫉妬か。

 小泉の手帳はどうか見逃してほしいな。

 別に恋人ってわけでもなかったし。


 "嫌いじゃなかったのは確かだけど"


 自分の中でもその辺りははっきりしていない。

 間違いなく、大学時代の僕は恋愛面で遅れていた。

 男女の違いを意識し始めたのがようやくその頃だった。

 小泉に女の子との会話の仕方などを教えてもらっていたくらいだ。

 恋愛対象として考える以前に、僕がそういう事を考える段階に無かった。

 物理的に女の子に触れたのは社会人になってからの話だ。


 "だからきっと小泉のことは"


 一番近い異性の友人。

 あるいは最も距離の近い部活の仲間。

 こう考えていたんだと思う。

 向こうも多分同じだ。

 でなければ部活外でデートの一つもしていただろうし。

 この自問は何度も行ってきた。

 その度に同じ結論に達している。


 "まったく"


 性別が違うって面倒くさいな。

 ええと、そもそも何を考えていたんだっけ。

 そうだ、雪女のことだ。

 小泉は恋人じゃなかったから、手帳持ってるからって嫉妬しないでくださいよって話だった。

 アホか、僕は。

 存在しない妖怪のことでごちゃごちゃと考えて。

 ほら、そうこうしている内に明神も通り過ぎてしまった。

 考え事なんかしているからだぞ。

 いや、逆に良かったのかな。

 この単調な雪道を歩くのは退屈だし。

 いつの間にか前に進んでいるなら、その方がましなのか?


 "良くはないだろう"


 頭上を見る。

 木々を通して冬の空が見えた。

 すぅっと吸い込まれそうな青空だ。

 けれども冬の太陽は弱く、どこか儚い。

 いつ天気が崩れてもおかしくない。

 とにかく今日は横尾まで早めに着かないと。

 そしてちゃんと眠って翌日に備えるんだ。

 不要な思考は捨てていこう。

 息を吸う。

 ゆっくりと吐く。

 一呼吸だけでも冷たい空気が肺を刺激する。

 脳の奥がクリアになった。

 歩こう。

 今はただ黙々と。



 横尾に到着したのは午後2時過ぎ。

 午後の陽射しが傾き始めた頃だった。

 佐藤さんの旦那さんが「ようやく着きましたねえ」としみじみ言ったのが印象的だった。

 ええ、僕も同感です。

 上高地を出たのが午前9時。

 なので5時間以上もかかってしまった。

 夏なら3時間あれば着く行程だ。

 やはり冬は時間がかかる。

 皆、ザックを下ろしてホッとした様子だ。

 僕もそれに倣う。

 何気なく周りを見ると、あった。

 一軒の大きな山小屋が立っている。

 横尾山荘だ。

 焦げ茶色のシックな色合いが洒落ている。

 だが冬期には閉鎖されて人はいない。

 根津さんが僕の視線に気がついた。


「鍵がかけられていますが、最悪の場合、壊して中に入れますよ」


「えっ、どういうことですか」


「いきなり猛吹雪に襲われて遭難寸前になったらってことです。実際、幾つかのパーティーがこの緊急避難で凍死から免れたことがあります」


「出来ればそんな事態は避けたいですね」


 極限まで追い込まれての避難なのは間違いない。

 そんな猛吹雪に襲われるなんて考えたくもないな。

 ただ、何があるか分からないのが冬山だ。

 一応頭の片隅に入れておく。

 とりあえずは、そうだな。

 ここで一泊するためにテントを立てよう。

 横尾にはテント場もあるのでそこを借りることになる。

 雪は積もっているけど、テントマットを下に敷けばある程度寒さは防げる。

 あとは夕食だ。

 佐藤さんご夫妻が鍋と食材は持ってきているのでそれを使う。

 こういう荷物の分担が出来るのがパーティーによる登山だ。


「4時半には夕ご飯にしましょう。事前に打ち合わせた通り、今日は僕が炊事担当ということでいいですよね」


 誰からも異論は無かった。

 よし、やるか。

 今日は猪の肉を使った鍋もの、つまりぼたん鍋だ。

 せっかく長野まで来たから地元の料理で暖を取ろう。

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