第四十三話 冬の上高地へ
「思った以上に冬山って感じですね」
口にしてから自分の感想の拙さを嘆いた。
案の定、運転席の根津さんに笑われた。
「はは、もうすぐ上高地に入るからね。雪もどっさりだ」
「毎年見ているけどやっぱり冬の北アルプスの雪景色はいいものだよ。自然の偉大さを感じる」
「そうねえ。寒い寒いと言いつつ魅了されちゃうわよねえ」
後部座席にいるのは佐藤さんご夫妻だ。
僕ら4人は今朝松本で合流した。
現在、根津さんの4WDに乗って上高地へ移動中。
沢渡から車を乗り入れ、トンネルを通過したところだ。
助手席から窓の外を見る。
この辺りは国立公園指定地域だ。
それを知っている為だろうか、やはりすっきりと垢抜けて見える。
車が進むたびに山の草木と雪が渾然一体となっていくような――そんな錯覚を覚えた。
「今は車中から見ているから分からないけど、降りたら空気の綺麗さに驚きますよ。本当に澄み切っている」
「楽しみです」
「うん。確かに冬山は危ない面もあるけど、それを上回る魅力もあるからね。楽しむ部分は楽しみましょう」
根津さんは穏やかに話してくれる。
直接会うのは初めてだ。
日焼けした肌が山男だなと感じさせる。
歳はやはり50代後半くらいだろうか。
身長は僕とほぼ同じ。
細身だが肩の辺りががっしりしている。
佇まいの端々に山のベテランの風格が滲み出ていた。
筋を通した生き方をしてきたのだろう、と何となく思う。
佐藤さんご夫妻とは今回が本当に初対面だ。
お住まいは長野県松本市。
元々東京に住んでいたけれど、引っ越してきたそうだ。
「もう60代だからね。冬の奥穂はこれが最後かな」と旦那さんが穏やかに話してくれた。
奥さんは「奥穂は無理でも冬の燕岳くらいはまだまだ行けるわよ」とのこと。
根津さんの山友達らしい。
つまりこちらも相当な山のベテランに違いない。
"経験値では僕が一番下か"
これは仕方ない。
ここに来る前から予想していた。
後は体力面でどれだけついていけるか。
いや、もう一つある。
メンタル、あるいはモチベーション。
つまりはやる気の問題だ。
"そこだけは負けていない"
強く思う。
別にパーティーの間で競い合う必要は無い。
だが、極端にレベルの劣る者がいるとそいつが足を引っ張る。
下手をすると他の者が危険に巻き込まれることにもなりかねない。
それは許されない。
僕としても、もし僕が足を引っ張ることになったら自分を許せなくなるだろう。
車が雪道を力強く進む。
朝の清涼な光に雪景色が白く輝いて見える。
その清々しさを目に焼き付けながら、僕は考える。
"登山を再開してから約1年か"
日の出山から始まって、陣場山から高尾山への縦走をやった。
夏のパノラマ銀座を縦走したこともあった。
そうだ。
あの時、奥穂高のモルゲンロートを見て心打たれたんだったな。
三ッ瀬に会って、一緒に秋の大岳山に登った。
年末には硫黄岳に登って冬山の感覚を取り戻した。
"この人達から見たら大したことではないのかもしれないが"
それでも。
それでもだ。
この1年、積み上げてきたものは嘘じゃない。
山道を一歩一歩踏みしめ、山頂に辿り着いた時のあの感動。
山頂から見下ろした風景の素晴らしさ。
山が心に与えてくれたもの。
その全てが僕の力になっている。
これが嘘だと言うなら、僕は何も信じられない。
"よし"
自分の中で静かに火が灯る。
その時、車が大きなカーブを抜けた。
フロントガラスを隔てた視界が明るい。
森の木立の切れ目に差し掛かったのか。
いや、それよりも。
「見えてきましたね」
僕はポツリと呟いた。
「うん。見事な冬の上高地だね」
根津さんもポツリと相槌を打つ。
日本有数の高峰に囲まれた水と緑の山岳リゾート地。
広大な上高地が視界を占めている。
雪と氷に覆われ、そこに夏の旺盛な生命力は感じられない。
ただ果てしなく透明度の高い白、それにその背後にそびえる山の黒が印象的だ。
生き物の姿はない。
何も動いていないモノトーンの世界は抽象画の美しさを秘めている。
見ている内に息苦しさを覚えるほどだ。
つい「冬だと熊もいないですよね。冬眠してるから」とどうでもいいことを喋ってしまった。
佐藤さんの奥さんが「まあ見ないわね。でも冬でもニホンザルはいるわよ」と反応してくれる。
「いるんですか」
「ええ。寒そうに体を縮ませながら、木の芽を探していたりするわね。熊よりたくましいんじゃないかしら」
「猿は冬眠せんからなあ。腹も減るんだろう」
旦那さんがのんびりと口を挟んだ。
根津さんは「猿は見ますねえ」と運転しながら言う。
そうか、こんな雪の中でも動けるんだな。
「猿って凄いんですね」と呟いた。
その間に車はどんどん進んでいく。
大きな池の横を通り過ぎた。
大正池だ。
上高地の玄関口とも言える位置にある。
水面から何本も枯れ木がその幹を突き出していた。
その風景も後方に置き去りにされる。
「そろそろ着きますよ」
根津さんの声が車中に響いた。
空気がピリッとするのが分かった。
雪を踏み、車が進む。
左手前方に広い駐車エリアが見えた。
雪に覆われているけど見覚えがある。
夏にはバスターミナルとして使われている場所だ。
僕らの乗る4WDがギシリと停車した。
外に出ると空気が街中とは明らかに違った。
キンと澄んだ寒気が襟元から忍び込む。
上高地の標高は約1500メートル。
標高0メートル地点に比べれば9℃ほど気温が低くなる計算だ。
今は恐らくマイナス5℃くらいか。
いちいち測らなくても大体は分かる。
「用意出来たら行きましょう。早めに横尾に着けばそれだけ長く休める」
根津さんの言葉に頷く。
足元にスノーシューを装備する。
上高地から横尾まではほとんど傾斜が無い。
ひたすら森の中の遊歩道を歩く。
恐らくスノーシューが一番活躍出来る区間だ。
根津さんと佐藤さんもそれぞれ足元を固めている。
「では」と根津さんが声をかけた。
歩き始める。
スノーシューの先端が雪に当たる。
白い粉雪が舞った。
八ヶ岳の雪に比べると軽く感じる。
歩きながら周りに視線を飛ばす。
静かだ。
雪はそこまで深くないが、土が見える箇所はほとんど無い。
命というものがまるで感じられない世界だ。
左手に梓川が流れている。
夏は本当に透き通るような青さに息を呑む水流だが、今はただ灰色の空を映すだけだ。
川幅は広く、それだけにどこか怖い。
梓川の向こうに巨大な山がそびえ立っている。
一目でその険しさが分かる。
穂高連峰の一つ、前穂高岳だ。
上高地から直接登れるルートはあるが、奥穂や北穂に比べれば登山者はやや少ない。
少しマイナーな印象はある。
だが、こうして仰ぎ見るとマイナーなんてとんでもない。
巨大な岩の塊がこれでもかと存在感を放っている。
人間がいかに小さな存在か思い知らされる。
極限まで澄み切った空気を通して、僕は前穂高と対峙していた。
奥穂高はその更に向こう側だ。
ここからではまだ見えない。
前へ向き直った。
ザッ、ザッと雪を踏み締める。
4人全員がリズム良く、フラットな積雪の上を進んでいく。
調子はいい。
「先頭やります」
根津さんに声をかけた。
そこまで深くないとはいえ、ラッセルする場面はある。
一番若い僕が出来るところまで先頭で行くべきだろう。
根津さんとゴーグル越しに目があった。
無言で頷き、僕はそのまま根津さんを抜いた。
佐藤さん夫妻はその更に後方だ。
先頭だと確かに積雪の抵抗はある。
だが、誰も踏んでいない雪は言葉にし難い美しさがあった。
冬の森の中を僕を先頭にして歩いていく。
雪が音を吸収するのもあるだろう。
深い静寂に包まれながら、ただひたすら前へ。
枝の隙間から陽射しが斜めに落ちていた。
白く明るい雪景色の中を進むのは、なるほど。
冬山でしか味わえない楽しさだね。




