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第四十二話 出発

 正午を告げるチャイムが鳴った。

 僕はPCの電源を落とす。

 今日はここまで。

 午後には長野に向けて出発だ。

 後輩が僕を見ながら「お気をつけて〜」と声をかけてきた。


「ありがとう。じゃ」


「あっさりしてますねえ」


「どこ行くのか教えているわけだし今さらな」


「そうですけど。というか、そういう服着ていくんですね、冬山って」


「ん、ああ。この上にもう一枚着込むけど」


 自分の服を見下ろした。

 ミドルレイヤーとして着ているフリースだ。

 職場から長野に移動するため、午前中はこれで出勤させてもらった。

 趣味に理解のある職場で良かったと思う。

 他の部署の方からも「松田さん、冬山行くんだって? 気を付けて」と声をかけられること数回。

 どこから広まったんだろうか。


「ではご武運を」


「留守番よろしく」


 後輩に手を振り、職場を後にした。

 無事に戻ってきたらお土産くらいは買って帰ろう。

 いや、違うな。

 無事に戻るに決まってるだろ。

 きたら、なんて仮定の話はするべきじゃない。



 根津さん達とは明日の朝、松本市で合流することになっている。

 今日の予定は移動だけだ。

 立川駅で特急あずさに乗り込む。

 このまま松本まで乗っていればいい。

 指定席に座ると旅の実感が湧いてきた。

 窓際の席が取れたのは幸運だ。

 列車がホームを離れる。

 徐々に加速していくにつれ、窓の外の風景が後方に消えていく。

 コーヒーを片手にしばらく外を見ていた。

 平日の午後というのもあり、車内は空いている。

 乗客はぽつぽつといる程度だ。

 僕と同じく、登山の格好をした人もいた。

 どこの冬山に行くのだろうか。

 南アルプスの鳳凰三山か。

 中央アルプスの木曽駒ケ岳か。

 それとも北アルプスの立山か。

 僕と同じ奥穂高という可能性もある。

 ああ、他人のことはいいや。

 今は自分のことだけ考えよう。


 "忘れ物は無いし、やることはやった"


 シートに身を沈めた。

 目を閉じる。

 頭の中で持ってきたものを思い返す。

 ピッケル。

 10本爪のアイゼン。

 スノーシュー。

 ゴーグル。

 ツェルト。

 それに今回は雪上宿泊するのでテントもある。

 装備の重量は20kgくらいにはなるだろう。

 ああ、そうだ。

 複数で歩く際に使うから持ってきた装備もあるんだ。

 クライミングロープ。

 これで二人の体を結ぶ。

 風で飛ばされたり、二人目の雪上歩行を助けたりする為に必要だ。

 ハーネス。

 ロープを結ぶ為に体に装着するギアだ。

 高所で働く建設作業員の人が使っているのとほぼ同じものになる。

 登山用の方が軽量化されているけど。

 スノーアンカー。

 これは雪に差し込んで使うものだ。

 ロープを長く取った場合、途中でアンカーと呼ばれる支点を作る必要がある。

 その時はこのスノーアンカーにロープを結んで、雪に差し込む。

 カラビナ。

 ロープとハーネスを繋ぐための金具だ。

 見た目は四角に近い金属の輪で一部が開閉する。

 こういう用具を使いこなす場面はそう多くは無い。

 ただし、使えないとまずい。

 ロープワークが必要な場面を想像してみる。

 一人で行動するのは危険なケースだからロープで繋ぐわけで。

 雪と氷が混じったような場所を歩いたり。

 ホワイトアウトにより視界が極端に悪化していたり。

 滑落の危険が高い岩場を登ったり。

 割と切羽詰まった状況をロープワークで切り抜ける。

 冬山のいざという時の備えとして使う技術がロープワークだ。


 "出来れば使わないにこしたことはないけど"


 目を閉じたまま考える。

 なだらかな山では当然必要ない。

 ただ、奥穂となると使う場面は出てくるな。

 涸沢から上、あのザイテングラートを登る時辺りからか。

 尾根に出た後、山頂までのアタックでも使うかもしれない。

 風に煽られて足を踏み外した時、ロープで支えられていれば助かる。

 でも絶対に必要というわけではないか。

 風の強さ次第では使う場合があるって感じかな。

 ロープワークには準備も必要だ。

 いちいち足を止めていればそのほうが危ないというケースもある。

 登りのことだけじゃない。

 むしろ下りかもしれない。

 例えば涸沢から横尾へ降りていく時、既に大半の 危険箇所は終えている。

 でも積雪によってルートの難易度が変わっていることもある。

 油断した時に足元が滑りやすい状態になっているかもしれない。

 そういう時はロープを使う場面もあり得るな。


 "その時はその時か"


 ロープワークについては正直あまり自信は無い。

 山岳部時代に一通り学んだけど、使う頻度は少なかった。

 登山再開後も使っていない。

 ロープの結び方を自宅で復習した程度だ。

 ただ、これはもう仕方がない。

 冬山の経験者であっても、全てのスキルを熟達している人は中々いない。

 中でも複数人でしか使う機会がないロープワークはかなりレアスキルになる。

 自分である程度は出来そうと言うなら、まだましな方だろう。

 むしろここまで来たら出来る部分に目を向けた方がいい。


 "やれることはやってきた"


 ゆっくりと目を開けた。

 特急あずさは山梨県をひた走っている。

 線路近くの低山が見え、すぐに後方に置き去りにされた。

 松本に着くまで今しばらく時間がある。

 持ってきた雑誌を読むことにした。

 山にいる間はこういうことも出来ない。

 そう思うと、普通に買える雑誌が急に貴重なものに見えてくる。

 現金というか、いい加減というか。

 自分で自分を少し笑った。

 そんな僕を乗せて特急列車は松本へと向かっている。



 予定時刻通り無事に着いた。

 松本駅から出るとさすがに気温が低い。

 夏のパノラマ銀座の時も来たけど、あの頃とは全然違う。

 周囲が山で囲まれているからだろうか。

 寒気が地面にとどまって底冷えがする感じだ。

 とはいえ、雪山に慣れてきたのでどうということもない。

 さっさと駅前のホテルにチェックイン。

 部屋にザックを置くともうやることは無い。

 明日からの食料や飲料も全部揃っている。


 "ちょっと歩くか"


 部屋にいても気詰まりだ。

 貴重品だけ持って外出することにした。

 松本は何回か来ている街だ。

 地方都市だけど結構大きい。

 駅前を適当にぶらぶらする。

 お土産は今の内に買った方がいいかもな。

 帰りはくたびれ果てて忘れてそうだし。


 "あ、そうだ"


 夕ご飯は何にしよう。

 明日に備えてパーッと豪華に......いや、違うな。

 そういう気分じゃない。

 普通にちゃんと食べるとしたら何がいいか。

 すぐに思いつく料理が一つある。

 山賊焼きだ。

 鶏の一枚肉をタレに漬け込んで揚げたもの。

 唐揚げに近いけど、一枚肉でどーんと出されるから迫力がある。

 上高地周辺のレストランでもよく見かけた。

 お店の人が「鳥肉を揚げる、つまり、とりあげる。取り上げるから山賊っていうダジャレなんですよ」と笑いながら教えてくれたっけ。

 懐かしいな。


 よし、決めた。

 山賊焼きをしっかり食べて明日に備えるとするか。

 決めてしまうと足取りは軽かった。

 あとはもう食べて、寝て、ちゃんと起きればそれで良し。

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