第四十話 日程が決まった
ほどなく根津さんからメールが届いた。
日程は2月後半。
祝日と土日による3連休を含んだ3泊4日の行程。
これなら有給取得も最低限で済む。
社会人としては助かるな。
ルートは予想通り。
というか、通常これ以外にはない。
上高地から横尾までひたすらフラットな道を歩く。
ここで1泊。
2日目は横尾から涸沢を経由してザイテングラートを登り、穂高岳山荘の近くで宿泊。
これで2泊目。
3日目は奥穂高の山頂にアタック。
登頂後、涸沢まで引き返してそこで宿泊。
これが3泊目。
4日目はひたすら来た道を戻り、上高地まで。
妥当な行程だと思った。
"上高地までのアクセスはどうするんだ?"
上高地は中部国立公園に指定されている。
そのため排ガス規制があり、マイカーによる乗り入れは禁止されている。
登山者や観光客は観光バスで訪れるのだが、冬季にそんなものは無い。
そもそも上高地は冬期には閉鎖されているんだけど。
メールの最後の方を見る。
ああ、そういうことか。
今回の冬の奥穂高は日本山岳会による冬季穂高連峰の環境調査という名目らしい。
そのため、環境庁から特別許可をもらっているので上高地まで車でアクセス出来るとのこと。
「凄いな」と思わず呟いてしまった。
とにかく上高地までは心配しなくていいのは分かった。
行程を考える。
3泊4日か。
夏の奥穂なら1日目に涸沢泊、2日目に奥穂登頂を果たしてから涸沢まで戻る、3日目に上高地まで戻って終了という2泊3日が定番だ。
冬だと積雪や天候不順のリスクからどうしても時間がかかってしまう。
1泊多くなるのはやむを得ない。
"恐らくポイントは2泊目"
穂高岳山荘の近くでの宿泊か。
奥穂高の山頂近くの尾根に穂高岳山荘は立っている。
冬季には閉鎖しているので宿泊は出来ない。
山荘を風よけに使ってその周辺でテント泊ということになる。
標高約3100メートル。
風が叩きつけてくる冬の尾根でのテント泊。
気をつけないと危ないだろうな。
3日目以降は奥穂登頂だけきちんと果たせば問題ない。
あとはひたすら下っていく。
風の影響は尾根から外れればそこまで気にしなくていい。
うん。
3泊4日で攻略できる。
キーボードを叩き、返信のメールを書いた。
「正式に参加を希望します」という一文を書く。
心のどこかがピリッと引き締まった。
送信。
もう戻れない。
戻る気も無いけれど。
心の中で思っているだけじゃなくなった。
具体的な日程やルートが決まった。
その差は大きい。
"やるしかないなあ"
きっと寒いんだろうな、2月の奥穂高は。
いや、それ以前に上高地の辺りでも寒いか。
あの辺りは冬になると本当に雪で閉ざされた土地になるからな。
そんなところにわざわざ入山していくんだ。
傍から見れば理解し難いだろう。
"でもいいんだ"
テーブルを見る。
一冊の手帳が置いてある。
赤い革表紙の手帳は何も語らない。
僕は手を伸ばして手帳を取った。
最後のページから順にめくる。
あの一文にぶつかった。
「皆で最後に冬の奥穂高に登れたらいいな」
ロマンチストか、君は。
心の中で僕は彼女に語りかけた。
いや、僕も人のことは言えないか。
正式に2月に奥穂高に挑むことが決まった。
早めに休みを確保するため、有給を申請しておく。
僕が登山をすることは上司も知っている。
なので理解は早かった。
もっとも、仕事に支障が無いよう手配はしている。
理由がなんであれ、有給申請が拒まれることはない。
ただ、それは理想論なわけで。
実際には「この日何かあるの?」と尋ねられることも少なくない。
あくまで雑談レベルではあるけれど。
僕の場合は一言だけ。
「登山かな?」と課長はさらっと聞いていた。
素直に「はい」と答える。
「そうか。興味本位で聞くけど2月の山って雪山だよね。危険は無いのかな」
「経験豊富な方と一緒なので。万全を期しています」
「ほう。じゃあ上司としても安心だ。プライベートのことだから止める権利は無いけど」
そこで課長は一旦話すのを止めた。
僕の顔を見る。
「わざわざ危険に飛び込むのを知っていて黙って見ているってのもあれだしね」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。必ず無事に戻ってきます」
「うん、信用しているよ。ちなみにどこの山?」
「奥穂高です。ご存じでしょうか」
「何となく聞いたことはある。かなり高い山だった気がするね。そうか、そんなところに登りに行くのか。うーん、まあ頑張ってくれと言うしか出来ないけどね」
「はい。万が一の為に引き継ぎのマニュアルは作っておきますので。ご安心ください」
「縁起でもないこと言わないでくれよ。ただ、そうだな。そのマニュアルだけは作ったら私にメールしておいてくれ。君もいつまでも今の仕事をしているわけじゃないからね」
「承知しました」
そこで会話は終わった。
課長は自分のパソコンに目を落とす。
行っていいという合図だ。
僕も自分の席に戻った。
後輩が小声で話しかけてくる。
「松田先輩、何ですか今の会話は!?」
「何って何が?」
「引き継ぎマニュアルって何なんですか。それ、遭難でもして生きて帰ってこれないこともあり得るってことじゃないですか。そんなところに行く気なんですか」
「危険が0じゃないってだけだ。無事に戻ってくる確率の方がよっぽど高いよ」
「ええ......」
後輩は両手をブルブル震わせている。
命がけの登山と聞くとやはり怖いものなのだろう。
冬山だし仕方ないのか。
遭難とか滑落とかそういうイメージがあるよね。
「僕は勝てる見込みのある勝負しかしないよ」
それだけ言い切って仕事に戻った。
後輩もそれ以上は何も言わなかった。
2月後半までの日々は穏やかに過ぎていった。
土日に暇を見つけて冬山に行く。
雪の上を歩いたり、冬山用のギアを使う感覚を掴む為だ。
硫黄岳を登ったことで概ね大丈夫という気はしている。
その感覚を忘れないため、よりブラッシュアップしておく。
あまり気負っても仕方ない。
天候が悪い時は潔く諦め、山には行かなかった。
家の周りをランニングして、後は引きこもる。
冬に自宅に引きこもっているのは心の健康には良くないらしい。
冬は日照時間が短いから鬱になりやすいと聞いた。
家にこもっていると更に日に当たらないからということだろう。
でも寒いものは寒いし、外に出るのが億劫な時はある。
「仕方ないよね」とぼやきながら窓の外を見た。
雪は降っていない。
ただ、外はしんと冷えている。
朝から灰色の雲が垂れ込めており、日も差さない。
冬らしい曇り空だ。
それでも雪が降らなければ大したことにはならない。
陰鬱なイメージは抱くけどその程度だ。
僕は考える。
今、奥穂高はどんな感じなのだろう。
曇り空で済めばラッキーだ。
多分、雪が降ることになる。
上高地の辺りで雪が降ると絵になることこの上ない。
白く凍りついた森、その中を淡々と流れる梓川。
雪がしんしんと降り積もり、水面に消えていく。
怖いほどの静けさだろうな。
夏の涼やかさとはまた違う。
冬は一言で表すなら厳粛だ。
目を閉じれば容易に想像出来た。
イメージトレーニングと言うほどのものじゃない。
ただ想像力を働かせているだけだ。
その時、ふと思った。
一応、宏樹達に奥穂に行くと連絡しておこう。
小泉の日記のことは覚えているだろうし。
全然使っていないグループチャットを開く。
簡潔に『2月に冬の奥穂に登ることになりました』とだけ送った。
これでいいかな。
あとやっておくことは特に無いはずだ。




