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第三十七話 ビバーク

「山の天気は変わりやすい」


 よく言われる警句だ。

 標高によって同じ山でも気温差があるからか。

 それとも雲とぶつかりやすいからか。

 実は僕も理由はよく覚えていない。

 ただ、事実として実感はしている。

 天気予報の予想だけではカバーしきれない変化が起こりやすいということを。

 例えば1日中、曇りという天気予報だったとする。

 山ではこの曇りというのはアベレージに過ぎない。

 1日の間に瞬間的な小雨、ガス、晴れ間、突風が発生する。

 平均すると曇りになるというだけだ。

 もちろん毎回こうなるわけでもない。

 天気予報通り、ずーっと晴天で気持ちの良い山行でしたということも当然ある。

 ただし頭の片隅に入れておかねばならない。

「山の天気は変わりやすい」と。


 そして今、僕はまさにそのことを身を以て知らされていた。

 視界が悪くなっている。

 八ヶ岳の麓の辺りは完全にガスで見えなくなってしまった。

 左側の斜面へちらりと視線を飛ばす。

 白いガスがゆるゆると這い上ってくるのが見えた。

 何となく気持ちが悪い。

 登山道を見通そうとしても遠くまでは確認出来ない。

 せいぜい60、いや、50メートル程度か。

 高密度の濃霧だと隣で歩く人すら霞むという。

 そこまででは無いにせよ、ちょっと危機感はあった。


 "道間違ってないよな?"


 赤岩の頭からの下りは単純なルートだ。

 分岐点も無く、足元だけ気をつければいい。

 それでもちょっとしたはずみから道を踏み外すことはある。

 遠くまで見通せればそういうミスはほぼ無いのだが。

 視界の悪化で本来とは違う方向へ踏み出す可能性は0ではない。

 少しずつ、少しずつ。

 リスクという名の水たまりが広がっていく。

 間違って踏み込んでも今はまだ濡れる程度だろう。

 だが、更にこの水たまりが深さを増せば?

 濡れる程度では済まないかもしれない。

 判断を強いられている。

 強行するか。

 この状況でもとにかく急いで下山する。

 とどまればとどまったで危ない。

 日没になれば視界の悪化どころの話ではない。

 冬の夜の山は危険極まりない。

 八ヶ岳でもマイナス15℃、いやそれ以下にはなるだろう。

 闇に閉ざされ、行動もおぼつかなくなる。

 リアルに死へと近づくと思っていい。

 それだけは避けたい。

 だが、安易に急いでいいのか。

 足元がおろそかになり、道を踏み外さないか。

 あるいは足を滑らせて捻挫でもしたら?

 アイゼンを付けるのはほぼ10年ぶり。

 平常時ならともかく、焦りから行動が狂うことはあり得る。


 思考を強いられていた。

 駄目だ、これ自体が集中力を妨げる。

 頬に冷たいものがあたった。

 雨?

 小雨で済むのだろうか。

 時折、風も吹いている。

 その度に下り斜面のガスが揺らぎ、まるで誘っているかのようだ。

 幾分薄気味悪くなってきた。

 多少我慢すればこの悪天候も突破できるとは思う。

 思うけれども、しかし。


 "潔くビバークしよう"


 腹を括った。

 なるべく山側に移動する。

 ザックを下ろし、再びツェルトを取り出した。

 ポールを立てるのももどかしい。

 適当に張ったツェルトの中に身を潜めた。

 風の音が弱くなる。

 薄いテント生地一枚だけでもずいぶんと安心感がある。

 直接外気に身を晒さずに済む。

 ツェルトの中が自分のテリトリーのように思えた。

 大きく息を吐き出した。

 ああ、そうか。

 自分で思っていたより緊張していたんだ。

 リラックスの為、保温ボトルから紅茶を飲んだ。

 まだ温度は保たれている。

 甘い紅茶が舌を滑り落ち、胃が仄かに温まる。

 ホッとする。

 うん、大丈夫だ。

 ついでにチョコレートも食べておいた。

 本当はここで食べるつもりは無かった。

 さっきの昼ご飯から幾らも時間は経っていないからだ。

 だけど、もしこのまま天候悪化が続いたとしたら。

 強風に煽られればチョコレートを口にする余裕すらないだろう。

 最悪のケースまで考えて、とにかく食べられる時に食べておく。


 この辺りの判断はケースバイケースだ。

 本当に必要になった時の為、ビスケットを一箱持ってきている。

 これを開封する羽目にはならないとは思う。

 山中で夜を明かすような緊急事態にならない限りは。


 "そこまで追い込まれる状況か"


 ツェルトの中で考えた。

 あり得ないほどの天候の悪化。

 恐らく吹雪になっているはずだ。

 きちんとしたテントは無く、このツェルトだけでビバークを強いられるわけで。

 耐えられるか?

 耐えられたとしても凍傷は免れないな。

 指の一本くらいは失うことを覚悟しておこう。


 "......いや、無いな"


 風でツェルトがばさりと音を立てた。

 外を覗く。

 視界はさっきと同じ程度。

 白いガスが薄っすらと下りの山道にかかっていた。

 だが、悪化はしていない。

 小雨も降っていないらしい。

 ツェルトの生地を見てもほとんど濡れていない。

 雨の可能性は無い。

 時計を見る。

 ビバークしている時間は15分程度。

 この間に強風でツェルトごと煽られたことは無かった。

 恐らく風もこれ以上強くはならないだろう。

 その時、不意に視界の上方が明るくなった。

 見上げる。

 雲の隙間から光が差していた。

 斜面の一部が陽光に照らされている。

 その部分が明るく、まるで光り輝いているように見えた。

 岩肌に積もった雪が白く輝く。

 まるで先行きの明るさを示すサインのようだ。

 ツェルトから外へ。

 中腰の姿勢でその日だまりの中の雪を見つめた。


 "行くか。いや、行こう"


 太陽の気まぐれを信じたわけじゃない。

 元々の天気予報でも大規模な雲は報じられていなかった。

 このガスはあくまでイレギュラーと考えるべきだ。

 最悪の状態は脱したと見ていいだろう。

 実際、風も強くはない。

 雨も無い。

 何より自分自身の心が前を向いている。

 ツェルトを片付け、ザックに収納する。

 ビバークを終えた今、取るべき行動はただ一つ。

 確実に下山するだけだ。


 ビバークを切り上げたのは正解だった。

 下るごとにガスが晴れていく。

 視界が晴れると共に冬の八ヶ岳の裾野も見えてきた。

 こうして見ると改めて雄大な山塊だと思う。

 白く凍った森に冬の陽射しが当たっている。

 透き通るような微細な煌めきが美しい。

 冬山を満喫している内にオーレン小屋の前に出た。

 ここからはスノーシューを履く。

 登山道の傾斜が緩くなるのでちょうどいい。

 腕時計は午後2時ジャスト。

 ビバークを余儀なくされた割には悪くない。


 森の中を歩く。

 息が白い。

 だけど呼吸は正常だ。

 久しぶりの雪山を無事にクリア出来ている。

 硫黄岳は初心者向けではあるけれど、それでも前進には違いない。

 冬山用のギアも問題なく使えた。

 この山行で得たものは大きい。

 緩やかな下りが森の中に続いていた。

 その中を縫うように歩いている。

 シン、と全ての音が消えるような空間だ。

 冬山は日常から切り離された空間なんだな。

 久しぶりに実感出来た。

 ここでの経験は何物にも代え難い。

 立ち止まる。

 一度休憩を挟んだ。

 紅茶のぬくもりが身に染みる。

 行こう。

 最後まで歩こう。

 桜平はもうすぐだ。


 ――見えてきた。

 ――あと100メートル。

 ――50メートル。

 ――20メートル。駐車場がはっきり見える。

 そしてようやく。


「やっと着いた」


 出発地点の桜平に戻ってこれた。

 振り返る。

 ここから硫黄岳の山頂は見えない。

 森の木々でブラインドになっている。

 まあいいか。

 最後に挨拶しておこう。

 いい体験だったから。

 ありがとう、と無言で僕は頭を下げた。

 さあ、後は車を運転して帰るだけだ。

 順調なら年越しの瞬間は自分の家で迎えられそうだね。

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