第三十五話 硫黄岳山頂
木々の間を抜けていく。
このあたりは雪が薄い。
その分、薄っすらと凍った石がむき出しになっている。
このくらいの斜度なら特に問題はない。
八ヶ岳ぐらいで弱音を吐いていたら話にならない。
鬱蒼とした森を抜けて稜線に出た。
夏沢峠だ。
ここが北八ヶ岳と南八ヶ岳の分水嶺となる。
北を見ると蓼科山や天狗岳などの穏やかな姿が。
南を見ると赤岳、横岳などのぐっとせり上がった雄々しい姿が。
スケールが大きい。
八ヶ岳は巨大な山塊ということを実感する。
視界を遮るものがほぼ無く、開放感に溢れた風景だ。
東西を見渡せば山梨県や長野県、東京都や埼玉県が遥か先まで見通せる。
特に西側の景色が良い。
南アルプスの北岳、間ノ岳という3000メートル超の高峰が壁のごとくそびえ立っている。
あの山々も白く雪化粧に染まっていた。
特に北岳が目立つ。
日本第2位の標高を誇るだけある。
この年末だ。
迂闊に踏み込めば、冬山の怖さを嫌でも思い知ることになるだろう。
そう思いながら足元からゆっくりと視線を南へと伸ばした。
自然と続くたおやかな稜線の先に硫黄岳がある。
がつんとした登りはそんなに無い。
冬山の練習としてはちょうどいいだろう。
"もう少しだな"
体調はいい。
体が寒さに慣れたのだろうか。
冷たい空気を吸っても咳き込むなどの症状は出ていない。
3000メートル級の高さで強風を食らえばまた別だろうが、とりあえず今は問題なさそうだ。
自分の中で確認事項を潰していく。
頭の中で忙しく考えつつ、体を動かした。
雪に覆われた稜線を歩んでいく。
もう左右に木々は無い。
ところどころ岩を覗かせた白い稜線はとてつもなく美しかった。
その中を誰にも邪魔されることなく登っていった。
空が近いなとふと思った。
怖いまでに透き通った青空しか頭上には無い。
山に登るのは空へと近づく行為だと誰かが言ってなかったか。
詩的に過ぎるかもしれない。
でも気持ちは分かる。
地上には色々あり過ぎる。
思想、信条、葛藤、欲望。
こういった複雑さを捨て去ることが出来るのが冬山だ。
抽象的なまでに色彩を削ぎ落とした風景は僕の心を洗い流す。
山岳部の頃はあまりこういうことは考えなかったな。
社会人になったからか。
妙にしんみりとなるのは。
放ったらかしの管理職試験のこと、結婚するのかどうかということ。
考えなきゃいけないことが僕の周りには山積みで。
でも自分で解決するしかないわけで。
頭の中はぐちゃぐちゃで、感情が渦を巻くこともある。
この冬の硫黄岳山行は、そういったことから自分をリセットしたいというのもある。
"一時しのぎかもしれないけれども"
一歩。
また一歩。
ただひたすらに登る。
その一歩ごとに心の中のもやもやを捨てていく。
ちっぽけなことだろう。
この景色の美しさに比べれば。
時刻は11時40分。
僕は硫黄岳の山頂に辿り着いていた。
さすがに息が荒い。
最後だけスパートをかけたからだ。
左膝に左手を着きながら僕は達成感に身を浸す。
「やった」と言いながら右手のポールストックを雪に突き刺した。
雪が銀粉のように舞い、風に散らされていく。
標高2760メートル。
夏沢峠からの絶景も相当だった。
けれど高度を上げた分だけ、こちらの方が迫力はある。
より八ヶ岳全体を見渡すようなパノラマビューだ。
特に南八ヶ岳の景色がいい。
この硫黄岳からまっすぐ南へ続く稜線の先にあるのが横岳。
標高2830メートル。
さらに横岳から南へ行くと赤岳がそびえ立っている。
これが標高2899メートル。
八ヶ岳の最高峰だ。
硫黄岳、横岳、赤岳の縦走は南八ヶ岳の一番人気と言ってもいい。
その一角に僕は今立っている。
「でかいなあ......」
思わず声が漏れていた。
北アルプスを峻険と呼ぶなら、八ヶ岳は何だろう。
まだなだらかな稜線が広がる分、穏やかなイメージがある。
これは寛容さとでも言うのだろうか。
八ヶ岳は初心者がチャレンジする山域として名高い。
当たらずとも遠からずかな。
気安さ、手軽さ、親しみやすさまで言ってしまうと安っぽい。
赤岳まで登ればまた更に一段と高くなる。
だけど今回はそこまでは行かない。
うん、山頂からの絶景は堪能した。
でもこれで終わりじゃない。
硫黄岳にはもう一つ、絶対に見ておきたい景色がある。
視線を転じ、北東側へ少し歩いた。
足元の地面がある地点から急に喪失している。
山が消えた。
そう錯覚するほどだ。
事前に知っていてもこれには驚かされる。
僕は左右に目をやった。
火口だ。
巨大な火口が硫黄岳の北東部の山肌を抉り取っている。
火口と言っても足元にぽつんとあるサイズじゃない。
直径1キロ、高さ約550メートル。
でかいという形容詞じゃ収まりきらない。
圧倒的な自然の破壊力の痕跡。
見ていて愉快になってくる。
硫黄岳と言えばこの爆裂火口だ。
大昔、ここで大規模な噴火があったその名残らしい。
八ヶ岳全体が火山地帯だったとは聞いたことがある。
数百万年前とか、イメージ出来ないくらい大昔のことだそうだ。
この爆裂火口を見ていると「本当に火山だったんだな」と頷かされる。
これ以上説得力のある証拠は無い。
八ヶ岳の中でも硫黄岳が初心者お勧めなのも納得だ。
比較的に歩行時間が短く、頂上からの眺めも良く、他にはない爆裂火口という目玉もある。
最初は硫黄岳を日帰りでというのは定番コースだ。
それにしても冬の爆裂火口は迫力あるな。
白い雪が茶色の火口に貼り付いて、より険しさを際立たせている。
目の前の絶景を僕はしばらく眺めていた。
けれどいつまでも見ているわけにはいかない。
火口と山頂を後にする。
そろそろ昼ご飯にしたいけど、ここだと風にさらされる。
少しだけ帰路となるルートへ回り込んだ。
こっちは南への縦走路とは別のルートだ。
赤岩の頭と呼ばれる地点を経由してオーレン小屋の方へ下ることが出来る。
足元がちょっとだけ危うい。
ザレ場と呼ばれる砂っぽい道なのだが、雪と氷が混じっている。
慎重に歩みを進め、風が当たらない場所まできた。
"そろそろ食べておかないと保たないな"
お腹の減り具合、体力、この先のルートを考えると今がベストだ。
時刻は12時前。
行動時間は既に4時間を超えている。
それに気になることがある。
少しだけど雲が出てきた。
吹雪になることはないにしても、多少ガスるのはあり得る。
早めにご飯を食べて下山しよう。
"調理と防寒の為に風除けはいるよな"
ザックを下ろし、中からツェルトを取り出した。
ツェルトは言うなれば簡易テントだ。
きちんとした宿泊用のテントとは違い、主に風除けの為に使われる。
設立が容易な分だけ防寒機能は低い。
2本の支柱を雪の上に立て、そこからツェルトの生地をバサリと下ろした。
三角形の小さい家という感じだ。
あくまで簡易用だけど、薄い生地が1枚あるだけでも温かく感じる。
「助かるな」と呟きながら調理に取りかかることにした。
いつも山では簡単な調理しかしないけど、冬山なら尚更だ。
指がかじかんだりするし。
ガス缶も寒冷地仕様のカートリッジを使わないといけない。
これでないと中々点火しないから。
僕はちゃんと買っておいたけれどね。
まずメスティンに雪を少し入れる。
点火したバーナーに乗せ、雪を溶かして水を作った。
茹でるわけじゃないから少量でいい。
味付けが濃すぎないようにするための調整だ。
材料をジップロックから取り出し、メスティンに放り込んだ。
これらも例によって登山前に全部カットしてある。
お、肉が焼け始めたぞ。
一緒に放り込んだ牛脂もいい感じだ。
食欲をそそる、脂っぽい匂いが鼻をくすぐった。
冬山で食べるすき焼きは期待できそう。




