第三十三話 年末は雪山へ
年末をどう過ごすか。
普通はのんびりしているものだ。
新年を迎える為に大掃除をする。
お正月用のおせち料理を準備する。
大晦日には年越しそばを食べながら、除夜の鐘を聞く。
僕も例年そうしてきた。
大晦日に遠出した記憶はほぼ無い。
だけど今年、2023年12月31日は違う。
例年に無い過ごし方をしようとしている。
"さっむ"
息が白い。
でもそれ以上に周囲の風景が白い。
地面が雪に覆われている。
全面的に地面を覆う程度には白く雪が積もっている。
視線を上げると山が目に入った。
これから目指す山頂もまた真っ白だ。
雪の間から覗く岩の黒がより白を引き立てていた。
八ヶ岳の主たる登山口の1つ、桜平。
僕が現在立っている場所だ。
早朝のキンと切り立った空気が僕を包んでいる。
寒い。
雪山用のアウターで無ければ即撤退するだろう。
街で普通に着ているコートでは役に立たない。
自然の厳しさを思い知らされる。
だがそれ以上にこの雪景色は美しい。
桜平の周りを見渡した。
白い雪が積もり、地面や木々を綺麗にデコレーションしている。
透明感のある純白は目に眩しいくらいだ。
笹藪も雪にまみれていた。
葉の陰が暗く覗き、雪の白さとコントラストを成している。
仄かに緑がまだ残っているのも趣がある。
早朝だ。
東から射し込む朝日は優しいオレンジを帯びている。
柔らかなその光に空が目を覚ます。
東から西へと天を仰いだ。
薄い水色が広がっていた。
まるで目を覚ますかのように、グラデーションがかっている。
どこか儚さすら覚える水色の広がりだ。
夏の空の強烈な青とは違う。
動物も冬眠する季節だ。
生命をこの空の下で眠らせるかのような透き通った色だ。
静かだ。
シン......と周囲の雪に音が吸い込まれている。
僕が立てる足音くらいしか聞こえない。
ふとした瞬間に五感が狂うのではないか。
そんな錯覚を覚えた。
「神経質かな」
わざと軽く独りごちた。
歩き出す。
足元にはスノーシューを装備している。
接地面積が大きな分、雪に埋もれにくい。
ラッセルの必要は無さそうだ。
右手にはポールストック。
上半身の力を推進力に変え、確実に前へ。
行こうか、硫黄岳に。
久しぶりの冬山だ。
† † †
奥穂高の前に練習としてどこを登るか。
真剣に考えた結果、八ヶ岳に決定した。
八ヶ岳と言うとどこかの単独峰のようだが、それは違う。
八ヶ岳は巨大な山塊の総称だ。
長野県と山梨県にまたがっている。
サイズも相当なものになる。
凡そ南北に30キロ、東西に15キロ。
夏沢峠を境目に南八ヶ岳、北八ヶ岳と分けて呼ばれている。
この八ヶ岳は20以上の山を含んでいる。
その中の1つ、硫黄岳を今回登ることにした。
冬山としては適度な難易度になる。
この難易度を測るため、雪山登山ルートグレード表を参照してみた。
体力と技術の2項目あり、最高が5、最低が1という基準値だ。
硫黄岳は両方とも2。
ざっくり言えば冬山初級者向けと言える。
このグレード表には他の山も掲載されている。
南アルプスの仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳になると両項目が3。
つまり冬山中級者向けにレベルアップ。
更に北アルプスが誇るあの槍ヶ岳になると両項目とも4。
冬山中〜上級者となる。
ここから上になると数えるほどしか存在しない。
じゃあ肝心の冬の奥穂高岳はどうなのかというと。
体力が4.5。
技術も4.5。
相当の冬山上級者向けになっている。
これより上の冬山は剣岳しかグレード表には無かった。
もっとも剣岳は夏山でも最難関に当たる。
あそこはどんな条件でも厳しいということだ。
いや、今は剣岳のことはいいんだ。
とにかく冬の奥穂は相当な難関として立ちはだかっている。
三ッ瀬は「登れるだろ。ヒマラヤの8000メートル峰じゃないんだ」と言っていたけどね。
あいつの基準をそのまま僕にあてはめるのは違う気がする。
八ヶ岳の数ある山の中から硫黄岳を選んだ理由か。
別に深い理由は無いな。
八ヶ岳の中で主峰たる赤岳は標高2899メートル。
ここはルートも険しい。
山頂直下の登りは斜度がきつく、鎖場が連続する。
というわけで対象外。
冬山に慣れるという目的から考えるときつすぎる。
そういう観点で横岳、阿弥陀岳も除外。
残った山からピックアップしたのが硫黄岳になったという次第だ。
山頂へのアクセスも迷う余地がほぼ無い。
桜平からひたすら真っすぐ。
夏沢鉱泉とオーレン小屋の横を通り、夏沢峠まで上がる。
ここで南を見れば硫黄岳までは遠くない。
標高2760メートルの山頂を真正面に捉えて登ればいい。
硫黄岳の山頂に着いた後は周回ルートを使って下りる。
この周回ルートがオーレン小屋の前に出るので、あとは来た道を戻っていく。
分かりやすいルートなので不安は無い。
夏場のトータルの歩行時間は平均で4時間半。
冬山の場合は読みづらいが極端に長くはならないはず。
練習としては最適だと思った。
決断すれば後は実行するだけだ。
休みの都合が合わず、結局大晦日に挑むことになったのは仕方ないかな。
レンタカーを借りて前日の晩に出発。
桜平の駐車場に車を止め、車内で仮眠。
日が出ると共に行動開始というわけ。
† † †
桜平からしばらくはなだらかな登山道だ。
夏の頃なら八ヶ岳特有の苔を見つつ、てくてくと歩いていただろう。
けれど今、僕の周りにはそんなのどかな景色は無い。
緑豊かな森は殺風景な木立と化している。
木に残った葉はわずか。
そこにも雪が付いている。
生命の息吹を感じさせない景色だ。
足元も雪に覆われている。
スノーシューが無ければ、雪に足を取られているだろう。
ラッセル、つまり除雪行為をして進まなくてはならないところだ。
除雪行為といっても要は下半身で蹴散らしていくだけ。
体力の消耗は激しいし時間も食う。
こういうところが雪山の怖いところだ。
"やっぱり実際に経験しないと分からないよな"
ゴーグル越しに前を見る。
雪の照り返しが眩しいため、ゴーグルかサングラスは必須だ。
照り返しの中の紫外線が問題になる。
目が炎症を起こしてしまうのだ。
この炎症を雪盲と呼ぶ。
これにかかってしまうとまずい。
目が爛れたようになり、痛みから目を開けていられなくなる。
ゴーグルは吹雪の時の視界確保にも役に立つ。
そういう意味では必須装備だ。
こういうものが必要だと事前に知っていないと詰む。
だけどちゃんと準備をしていれば。
"夏と全然違うなあ"
歩きながら周囲を見渡す。
雪の白と森の木々の黒で視界は占められていた。
透徹した魅力とでもいうのだろうか。
モノトーンの風景は抽象画にも似ている。
シンプルで力強い。
夏の山が原色の生命力をペイントしているとすれば、冬の山は何だろう。
例えて言うならば水墨画だろうか。
色彩を極限まで削った美がここにある。
音も静かだ。
鳥の鳴き声もしない。
本当に一羽もいないのか。
あるいは鳥が鳴いても雪に吸い込まれてしまうのか。
他に登山者もいないので、僕の足音しかここにはない。
白と黒の風景にザッザッという足音が吸い込まれて消えてゆく。
"――うん、これでいいんだ"
冬山とはこういうものだ。
胸の中でようやく実感が湧いてきた。
歩きながら視線を空へとやる。
ようやく日が登ってきたらしい。
抜けるような深い青空が頭上に広がっていた。
空気の澄んだ冬ならではだ。
八ヶ岳ブルーと呼ぶ人もいる。
雲がぽつぽつと浮かんでいる。
その近さにちょっと驚く。
既にそれなりに高度を稼いでいるからだ。
桜平でも既に標高1900メートルある。
そこから歩いてきたからもう2000メートルは超えている。
雲の高さ次第ではその中に突っ込むこともあるだろう。
俗に言うガスに巻かれるというやつだ。
冬場は特に厄介だと思う。
冷たい水の粒がまとわりつくし、視界がシャットアウトされる。
体力を奪われ、かつ方向を誤るというダブルダメージになる。
避けられないとしても出来るだけ短時間でやり過ごしたい。
美しさと怖さが冬山には同居する。
喉の奥がひりつくのを自覚した。
スリリングで、けれど楽しい。
これまでに無いほどモチベーションが高まっている。
よし、行くか。
まずはオーレン小屋まで一直線だ。




