第三十話 雨の図書館
大学という機関は比較的オープンな場所だ。
正門でいちいちチェックされることは少ないと思う。
明慶大学もノーチェックだった。
あからさまな不審者で無い限りは素通り出来る。
セキュリティ的にこれでいいのだろうかと思わなくも無い。
けれどそこは僕の考えることではないな。
見渡してもあまり人はいない。
ただ親子連れを何組か見かけて意外に思った。
いや、そうか。
入試の下見だろう。
邪魔にならないように気をつける。
しかし改めて母校を歩いてみると。
「広いな」
思わず呟いてしまった。
よく都心にこんな広い敷地を用意できたものだ。
校舎は1から8号館に分かれて点在している。
授業ごとに違う校舎に移動するから大変だったな。
今から思えば感慨深いと言えなくも......言えない。
ただ大変なだけだった。
ま、いいか。
今日は時間に急かされることもないし。
掲示されている地図を確認する。
図書館は4号館か。
在籍時と変わっていないな。
何となくホッとした。
そのまま4号館を目指す。
4号館の前には大きな欅の木が立っている。
深い赤に染まった葉に秋も終わりだと改めて感じた。
さて、無事に着いたのはいいけど。
"入れるかな?"
卒業生でも大丈夫だったとは思うけど、こればかりは聞いてみないとな。
入口で受付を覗いた。
「すいません」と声をかける。
係らしき女性が「はい。どういったご要件でしょうか」と聞いてきた。
「こちらの図書館を本日利用することは可能でしょうか。私、この大学の卒業生でして」
「さようですか。卒業年次と学籍番号をこちらの申し込み用紙に記入お願い致します。確認が取れ次第、テンポラリーユーズのカードを発行致します」
必要事項を用紙に記入する。
すぐにカードは発行された。
「助かります」と軽く頭を下げ、建物の中に入る。
ライティングがちょっと独特なのは昔からだ。
アールデコ調のランプから柔らかい光が放たれている。
こんなところに金かけなくても、と学生の頃は思ったものだ。
ただ雰囲気はいい。
アカデミックな空気を作り出す為の一種の工夫なのかもしれない。
廊下には淡い青灰色のカーペットが敷かれていた。
これも昔のままだ。
少しくすぐったい気分のまま、図書館の扉を開いた。
足を踏み入れる。
"変わらないな"
図書館は1、2階をぶち抜いたオープンな構造だ。
壁の一部がガラス張りになっている。
採光性を重視してのことだろう。
ただし今日は曇りなのであまり機能していない。
幾つか置かれたウッドテーブルにはぽつぽつと利用者がいた。
行動は人それぞれ。
本を読んでいる者が多い。
でも中には分厚いテキストを開いている者もいる。
学習用のタブレットを使っている者もいる。
僕らの頃はあれはまだ導入されていなかった。
便利な時代になったな。
ともかく邪魔にならないよう、静かに歩く。
席を確保し、本を探した。
本は何でもいいんだけどね。
図書館に来ること自体が目的みたいなものだし。
でもせっかくなので登山関係の本にするか。
雪山対策になりそうな本を本棚から抜き出す。
席に戻り、適当にページを開いた。
"何だかこうしていると"
静かな時間だ。
うるさい物音がしない。
時折ページをめくる音や抑えた足音がするくらい。
"あの時みたいだな"
そう。
大学3年のちょうどこの季節だった。
この図書館で僕は小泉に声をかけられた。
† † †
雨が近いのだろう。
シャーペンを動かす手を止めた。
額に右手を置く。
少し重い気がする。
低気圧のせいだと断じた。
勉強疲れという程には今日はやっていない。
この程度でいちいち止めていては一向に進まない。
ため息をついて、もう一度シャーペンを握った。
問題集を開く。
その時だった。
「お疲れ様」
背後から小声で話しかけられた。
ビクッと振り向く。
「小泉か」と僕は声の主に言う。
驚かせるなよ、まったく。
「ごめん、勉強の邪魔するつもりは無かったの。ただ、ちょっとしんどそうだったから」
小泉は囁くように話す。
ここが図書館だから気を使っているのだろう。
僕も合わせて小声になった。
「何でもない。大丈夫」と答えた。
ちょっと素っ気なかったかもしれない。
なので「珍しいね、図書館来るなんて」と付け加えておいた。
「うん、ちょっとね。実験のレポートまとめとこうと思って」
「ああ、そっか」
小泉は農学部だからそういうこともあるだろう。
これ以上話していると周りにも迷惑だ。
僕は向かいの空いた席を見ながら「使う?」と言った。
「うん」
小泉は短く答え、さっさと着席。
僕もそれ以上は彼女にかまけなかった。
再び問題に取りかかる。
僕が解いているのは大学の授業とは関係ない。
公務員試験対策の問題集だ。
来年5月に公務員試験がある。
その準備だ。
チラリと小泉の方を見る。
彼女は彼女で自分の作業に集中していた。
小型のノートPCを開いて、レポート用紙と見比べているようだ。
放っておくことにする。
しばらくの間、僕らは無言でお互いの作業をしていた。
図書館はこういう為にある。
ここは無音に限りなく近い。
利用者が立てる微かな音が余計に静寂を引き立てる。
しばし時が経過した。
外が暗くなっていないか。
顔を上げて窓の方を見た。
か細い雨が降り始めている。
強くはないが間断なく降り注いでいた。
秋雨か。
そう思うと急に肌寒さを覚えた。
"あと5問解いて、そうしたら帰るか"
集中力にも限度がある。
切り替えが大事だ。
小泉の方を見る。
「雨だね」と囁いてきた。
僕にしか聞こえない程度の小声だった。
無言で頷きかけたが、一応聞いてみることにした。
「どうする? 僕はもう少ししたら帰る」
「ん。じゃあ私も帰る。きりのいいところまでは出来たし」
「じゃあ10分後に」
返事を待たずに問題集に目を落とした。
制限時間を設けて本番の試験に近い形式にしておく。
耳に届くのは微かな雨の音だけだ。
問題文を読む。
何を問われているかを判断。
最適な答えを脳からひねり出す。
答案欄に書き込む。
これを5回繰り返す。
どれも短問だったのでジャスト10分で終わった。
「はあ」と息を吐いた。
我ながら良く集中していた。
どっと疲れた気がする。
いや、ここでのびている暇は無い。
帰らないと。
「出よう」と小泉に声をかけ席を立つ。
小泉は僕の後についてきた。
図書館を出ながら話しかけてきた。
「松田くん、凄い集中力だったね。さっき最後に解いていた時」
「見てたの?」
「うん。私の方はもう終わっていたから」
コクンと頷いた。
モスグリーンのタートルネックと深い茶色のプリーツスカートがよく似合っている。
秋らしい装いだなと思った。
「ラストだから試験形式でやった。暗記より問題解く方が好きだしね」
「偉いなあ、松田君は。私は公務員試験なんか無理だあ」
小泉も僕が公務員試験を受けることは知っているのだ。
僕は「安定志向なだけだよ。逆に僕は面接受けて内定もらう方が苦手だ」と笑った。
「そうかもしれないけどさー。こつこつ勉強出来るの、松田君のいいとこだよ。私は向いてない」
「この大学受かった時点で勉強に向いてないってことは無いと思うね」
「受かった時に全部使い果たしちゃった」
謙遜だと思うけどな。
さっきノートPC見てる時は真剣そのものだったし。
軽いやりとりで気持ちがほぐれた。
いい気分で帰れそうだなと思ったけれど。
「雨、急に強くなってない?」
小泉が顔をしかめている。
図書館から出て、僕らは立ち止まっていた。
まさに今から帰ろうというタイミングでこれか。
小雨程度だったのに無視できないレベルで降り始めていた。
「お互い傘はあるけど」と僕は呟きながら小泉の方を見た。
小泉がピンと人差し指を立てた。
「用が無ければお茶しながら雨宿りしない?」
「その方が賢そうだな」
それほど長くは降り続かないだろうし。




