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第二十九話 思い出の後を追って

 三ッ瀬との大岳山登山は無事に終わった。

 別れ際に彼は一枚の名刺をくれた。


「俺とつき合いのある日本山岳会の窓口だ。三ッ瀬からの紹介ですと言えば話は通じる」


「?」


「冬の奥穂やる時にはパーティー組んで行く方がいい。経験豊富なメンバーは必要だ」


「あ、そういうことか。ありがとう」


 礼を言って名刺を受け取る。

 名刺は薄く軽い。

 けれどもこれが必要になるかもしれない。

 そう思うと急に重く感じた。

 三ッ瀬はそんな僕を見ながら笑った。


「じゃあな。いい登山してたぜ、松田。吉報を期待してる――と言いたいけど、無理はするなよ。引き返さなきゃいけない時は引き返せ。俺からはそれくらいだ」


「ああ、分かってる。三ッ瀬も気をつけて」


「おう」


 そのまま僕達はそれぞれの帰路に着いた。

 三ッ瀬は日本に10日ほど滞在したらヨーロッパに戻るらしい。

 次に会う機会はあるのだろうか。

 分からない。

 日常で接点が無ければ中々会うこともないだろう。

 けれど一つだけ言える。

 どこで会ったとしても三ッ瀬浩司は山屋をやっているだろうと。



 カレンダーをめくる。

 今年も残り2ヶ月しかない。

 後輩は「もーいくつ寝ーるとーお正月ー」と歌っている。

 精神年齢が子供のままだ。

 僕の指導が悪かったのだろうかと一瞬自省した。

 いや、生まれつきだろう。

 仕事上の指導だけが僕の責任の範疇だ。

 普段の行動までは知ったことじゃない。

 こんな後輩だけど意外と仕事は真面目にやる。

 最近は遅くまで働く日も多い。

 今日もそうだ。


「疲れました~」


「よく頑張るな」


 時刻は20時半。

 深夜には程遠いが、昨今のワークライフバランスの観点からはやや遅い。

 PCの電源を落とした後輩をねぎらう。

 僕もちょっと疲れ気味だが、これくらいは慣れている。

 フロアを最後に出ることになった。

 職場の電気を落として施錠する。


「帰るか。お疲れ様」


「お腹空きました。ご飯食べて帰りましょう」


 え。

 唐突に言われた。

 後輩はまったくこちらを気にしていない。


「別に奢ってくださいとは言いませんよ。そこらの定食屋でいいんで一緒に行きましょう」


「もう早く帰りたいんだけどな」


「帰るまでお腹が保たないんですよぉ。別に私と二人のところ見られても大丈夫でしょう。先輩と男女の仲とかあり得ないし」


「さりげなくディスられた気がする」


 何がとは言わない。

 言わないが何かが引っかかった。

 多分些細なことだろう。

 僕は「分かったよ、飯だけな」と付き合うことにした。


「さすが先輩です。話が分かりますねえ」


「帰宅時に空腹で倒れて警察のお世話になりました、なんてことになったら僕の責任になりかねないからな」


「欠食児童ですか私は!?」


「僕の中では当たらずとも遠からずだけど」


 ポンポンとやり取りが続く。

 その間に店を見つけた。

 よくあるチェーンの定食屋さんだ。

 テーブルについて速攻でタッチパネルを叩く。

 今日は......焼き魚定食にしよう。

 後輩は真剣に悩んでいる。

 だが決断は速かった。


「ハンバーグ定食をご飯大盛りにしてと」


 よく食べるな、こいつ。


「ビールも頼もう。中ジョッキにしておこっと」


 え、飲むの?

「僕は飲まないけど」と一応先に言っておく。


「大丈夫です。ご飯のお供に一杯だけなので」


「君の肝臓を信じることにする」


 これ以上は自己責任だ。

 ほどなく定食が運ばれてきた。

 僕の定食のメインはホッケの干物だ。

 ほっくりとした白身から湯気が上がっている。

 箸を入れるとぱらりとほぐれた。

 うん、疲れた体に染みる。

 肉より魚の方が嬉しい時はある。

「年齢かな」と恐ろしいことを呟いてしまった。


「先輩、三十路ですもんね。そろそろ加齢臭も気になるお年頃ですし」


「あと10年はあると思うんだけど?」


「冗談ですよ、冗談」


 後輩はハハハと軽快な笑い声を上げた。

 何だか腑に落ちないぞ。

 僕が仮に「君も更年期障害がそろそろ気になる頃だね」と言ったら大問題になるだろうに。

 これは男女差別じゃなかろうか。

 とはいえ、別に後輩に悪意が無いのは分かっている。

 箸を進めながらぽつぽつと喋る。


「秋深し隣は何をする人ぞ、か」


「風流ですねえ、松田先輩は」


「僕の隣と言えば君だが、最近いいことはあったかい」


「いいこと。うーん、あっ、そうだ」


 答える前に後輩はジョッキを傾けた。

 ゴクゴクと豪快にビールを飲む。

 本当に一杯だけで済むのか心配になってきた。

 そんな僕の懸念は露知らず、後輩が口を開く。


「この前飲み会をしたんですよ。男女三人ずつで」


「ほお。で、何か収穫が」


「や、まあちょっといいかなと思う人はいたんですけどね。具体的にはまだ何も」


「これからの展開にご期待くださいってところかな」


「煽りますねえ〜。でも実際そうだと思います。11月って秋も深まってくる季節ですよね」


「そうだけど、それと男女の出会いに何が関係するの?」


「どことなくメランコリックになる月じゃないですか。日が落ちるのは早くなる。紅葉はピークになる。秋物と冬物の区別がつかず、衣替えは上手くいかない」


「そ、そうかな」


 最後のは君だけじゃないかとは言えない。

 後輩は語り続けた。

 ジョッキはすでに空になっている。


「12月がロマンチックな月とするなら11月はその前哨戦。メランコリックな情緒をもたらす月なんです。そう、特に雨の日なんかは」


 11月の雨か。

 確かにそうかもしれない。

 その時、フッと記憶の片隅が刺激された。

 あれはそう、大学3年の今頃だ。

 思い出を振り返るには今は場所が悪い。

 視線を味噌汁に落として適当に「秋の雨は心を濡らすからな」と話を合わせておく。


「先輩がそんなポエムを語るなんて予想外でした」


「せめて芸術家肌と言ってくれ」


 この間にも後輩は中ジョッキのお替りをオーダーしている。

 あーあ、もう知らないぞ。



 その週の土曜日、僕は都心に足を運んだ。

 中央線なら一本で着く。

 降りたS駅は山の手線の内側にある。

 周辺はビジネス街と学生街になっている。

 活気はあるけど繁華街というには華やかさが足りないエリアだ。

 改札を出てから駅の北側に出た。

 空には灰色の雲が分厚く垂れ込めている。

 雨になりそうな気配だ。

 心持ち早足になった。

 広い幹線道路を渡り、西の方へ数分歩くと目的地が見えてきた。

 黒っぽい外壁が目立つ大きな建物は僕が卒業した頃と同じ。

 つまり私立明慶大学の校舎だ。

 大学への道で何人かの学生達とすれ違う。


 "別に用があるわけじゃないけど"


 羽織ったウィンドパーカーのポケットに手を突っ込んだ。

 思い出を辿る休日というのもたまにはいいよね。

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