第二十八話 エベレスト登山についての考察
塩ラーメンを食べ終えた。
ふぅ、と満足のため息が出た。
もう一度富士山を見る。
山頂から山腹まで真っ白い。
この季節だ。
一般の登山者は入山規制に引っ掛かって入れない。
冬の富士山の難易度はどうだったかな。
こういう場合は三ッ瀬に聞くのが一番だ。
「冬の富士山って難しいんだっけ?」
「舐めてかかれる難易度じゃないのは確かだ」
ぼそりと三ッ瀬が答える。
こちらも食べ終えたらしい。
レトルトカレーのパウチをビニール袋に入れていた。
「この時期はまだしも厳冬期の富士山はやばい。知っているか。その難易度はエベレスト南東稜に匹敵するんだ。高度は別としてな」
「そんなに!?」
思わず声が出てしまった。
世界最高峰のエベレストには幾つか登頂ルートがある。
南東稜のルートはその中でも一番登られているルートだ。
いわゆるノーマルルートと思えばいい。
だが、それでもエベレストはエベレストだ。
動画で見ただけでも過酷なのは伝わってきた。
鞍部に上がれば強風に煽られる。
山頂に至るまでは雪に覆われたナイフリッジを伝っていかねばならない。
確かに極端に難しい岩場などは無さそうだった。
だけど安心できそうなポイントは無いと断言できる。
「あのエベレストと同格かあ。富士山怖いな」と思わず呟いてしまった。
「風が強いんだよ。富士山は独立峰だろ。風を遮るものが何も無い。足場はそこまで厳しくないけどな」
「へえ。山岳部の時も富士山は行かなかったからなあ。知らなかったよ」
「そんなもんだろ。もっとも俺に言わせりゃ」
そこで三ッ瀬は言葉を切った。
富士山の方を眺めている。
「エベレスト南東稜も恐れるほどじゃないだろって感じだがな」
「え、本気か、それ」
僕も荷物を片付けた。
時刻は午後1時。
そろそろ降り始めよう。
秋は日が傾き始めると一気に気温が低下する。
余裕を持って早めに下山が鉄則だ。
御岳山への下山ルートを歩き出す。
三ッ瀬が口を開いた。
「例えば時期が4〜5月頃のプレモンスーン期。この季節には風も比較的落ち着いている。エベレストに登る登山ツアーがあるのは知ってるな? ああいうツアーも大体この時期に行われる」
「ベースキャンプが登山ツアーのキャンプでいっぱいになるっていうのはニュースで見たことはある」
「そう。金さえ払ってツアーに参加すればどうにか登れちまうんだ。無論、経験豊富なガイドやたくさんのシェルパが助け、安全確保のために先遣隊がアイスフォールに梯子をかけたりしたり色々ヘルプが付くわけだけど」
アイスフォールとは氷の塊が重なったエリアだ。
ヒマラヤ山脈の谷に氷河が貯まり、ぶつかりあって形成されている。
氷の塊といっても尋常なサイズではない。
車より大きい氷塊は普通レベル。
中には3階建てのビルと同じくらいの超巨大な氷塊もある。
「とはいえだ。どれだけヘルプが付いてルート工作がされるとしてもだ。登山は素人に近い人間でもまあ何とかなっちまうレベルのルートなんだ。本当の難易度極限の登山には程遠いね」
三ッ瀬の表情は険しい。
気持ちは何となく分かる。
エベレストの登山ツアーは必ずしも評判は良くない。
ベースキャンプに捨てるゴミが環境破壊に繋がっている、という記事をどこかで読んだ。
たびたび批判はされるけれど、それでもこのツアーは無くならない。
溢れるほど金を稼いだ資産家が道楽で高峰へ登る。
その為には高額なツアーでも何でも駆使する。
ネパール政府もこれを歓迎する。
何故ならエベレストの登山ツアーは地元の経済にインパクトがあるからだ。
登山を主導して山頂まで導くガイド。
地形、天候を知り尽くした地元のシェルパ。
彼らに支払われる給料だけでも相当な額になる。
もちろんそれだけじゃない。
ネパールに到着してから出国までの宿泊料、飲食費なども登山ツアーの副産物と言える。
これは大きい。
ネパールには国を代表するような企業が無い。
製造業やITで国民を富ませる力が無い。
だからこそ、エベレストの登山ツアーやヒマラヤを巡るトレッキングなどの観光業を国が奨励している。
例えそれが多少の環境破壊を招いたとしてもだ。
そういったことを理解した上で。
三ッ瀬浩司はエベレストの登山ツアーは好きではないのだろう。
"生き方の問題か"
一言で言えばそういうことなのだろうな。
うん、けれど今は目の前の行動に集中しよう。
山頂直下の小さな岩場を僕は降りる。
斜度がきついのでお喋りはやめておく。
伸ばした右足が固い岩に乗った。
体重を乗せてもぐらつかない。
よし、行こう。
右足に重心をシフト。
一瞬だけ片足で立つような形になる。
後ろ向きのまま左足を下方へ。
すぐに足場を捉えた。
これを繰り返して乗り越えた。
「適度にスリリングっていう言葉がピッタリだな」
先を行く三ッ瀬に声をかけた。
「そうだな」と短い答えが返ってきた。
その間にもどんどん下りていく。
相変わらず速い。
こちらも負けじとついていく。
午後になり日差しに黄色みが増してきた。
杉木立を透かして陽光が斜めに飛び込む。
その中を縫うように大岳山を下りていった。
山頂から15分ほどで小さな小屋が見えてきた。
大岳山荘だ。
今はもう使われていない山小屋だ。
その近くには斜面から張り出した開けた空き地がある。
明らかに人工物だと分かった。
確かヘリポートじゃなかったか。
「大岳山荘に食料とか運んできてたってことだよな」
「だろうね。御岳山から歩荷で上げるより簡単なのは間違いないし」
三ッ瀬に答えながら大岳山荘の横を通り過ぎた。
閉鎖された山小屋だ。
特に用は無い。
しかし、標高1200メートル程度の山に小屋があるのか。
もっと高い山にあるものじゃないかと思うんだけど。
建てられた当時には事情があったんだろうな。
おっと、そう言っている内に視界が開けてきた。
山腹を斜めによぎるような山道、その右側からの景色が良い。
東京の北部や飯能の辺りが一望できる。
歩きながら見る程度の余裕はあるのが幸いだ。
街が広がり、自然と溶け合っている。
柔らかな秋の陽射しの中でまるで眠っているかのようだ。
何でもない風景かもしれない。
けれどこうした風景が僕は好きだ。
山頂からの雄大な眺めとは違う素朴な面白さがある。
山に登るのは結果を求めてだけではないと気付かされる。
途中過程で何を見て感じたか。
それも同じくらい重要だと思う。
とんとんとリズムよく山道を降りていく。
午後になると風が少し冷たくなった。
御岳山のケーブルカーまでなら2時間見ておけば十分か。
日が傾く前に下山出来るだろう。
落ち葉を踏む。
乾いた感触が登山靴の底から伝わってきた。
サクリと軽い音がした。
「御岳山で何か買うものあるか?」と三ッ瀬に聞いてみた。
「いや、特に無いな。熊の旨煮とかも買う気ないし」
「最近は揚げメロンパンとか売ってるよ。ケーブルカーの乗り場に店がある」
「それ、何キロカロリーあるんだよ?」
他愛もない会話をしながら僕たちは歩き続ける。
無事に麓に着くまでが登山なのだから。




