第二十話 モルゲンロート
山小屋の行動時間は地上のそれと比べると早い。
小屋によるものの、常念小屋の場合は夕食は午後5時から。
消灯時間は午後8時で皆一律だ。
登山の基本、早出早着に合わせるとどうしてもこうなる。
インナーシェラフに入り込み、その上から毛布をかぶる。
夢を見る暇もなくあっという間に眠りについた。
同室の二人がいびきを立てていたかも分からない。
翌朝。
北アルプスで過ごす最後の1日。
身支度だけ整え外に出る。
ザックは山小屋に置いたままだ。
日はまだ出ていない。
早朝というより夜の最後の時間帯だ。
4時になるかならないか。
普通なら行動開始には早すぎる。
だがこの時間から動き出す理由があった。
僕と同じように起きている人がそこそこいる。
皆目的は同じらしい。
常念岳の山頂で日の出を迎えるためだ。
歩き始める。
隣に並んだ人に声をかけられた。
「晴れそうで良かったですね」
「そうですね。天気に恵まれた」
返答してまた前進。
相手もそれ以上は話しかけてこない。
僕の方が少し速い。
距離が開く。
登頂目指して歩く人々も歩調を揃えているわけじゃない。
皆、それぞれに常念岳の山頂へと歩む。
足元には石が積み重なっている。
ガレ場には険しさが足りないが、無視できるほどでもない。
登りの為に右足をかける。
ぐらりと動いたので一瞬ひやりとした。
足元注意だな。
ハイカットの登山靴が高山向きである理由はこれだ。
足元が石や岩になるため、足首が捻れやすい。
足首まで覆うハイカットモデルならその捩れを防げる。
登山の最中で動けなくなるとほぼ詰む。
その意味ではやはり登山靴が一番重要な装備だろう。
"もう少しだ"
登っていくと徐々に東の空が白み始めた。
八ヶ岳のシルエットがうっすらと浮かぶ。
夜から朝にシフトしていく幻想的な時間帯だ。
僕より西側にある山はまだ暗闇に沈んでいる。
うん、ちょうど間に合いそうだ。
息が弾んだ。
規則正しい心音が自分の中で刻まれていく。
体の調子はいい。
そのことに満足しながら最後の登りを終えた。
よし。
案外広い常念岳の山頂に辿り着いた。
既に人がいる。
ちょうど朝日が射し込んできた。
常念岳山頂からさあっと闇が払われていく。
神々しいまでに美しい一瞬だ。
足元から下を見下ろす。
圧倒的な高度感に心が打ち震えた。
どこまで遠くを見渡しているんだ、僕は。
松本市も長野平野も手のひらの上に乗りそうだ。
その向こう、新潟県の方まで見える。
標高2857メートルから俯瞰するとはこういうことか。
朝の光に目覚めつつある大地が遥か彼方まで見通せる。
これだけでも十分、いや、まだこれだけじゃない。
背後を振り返った。
東側から西側を見る形になった。
「おお......」
思わず圧倒された。
槍ヶ岳、そしてその南側の穂高連峰を朝日が照らし出している。
黒い岩肌がオレンジがった淡い赤色に濡れていた。
なんとも艷やかな色彩だ。
薔薇色に近い。
猛々しい北アルプスの象徴が朝日を浴びてどこか優しく見える。
モルゲンロート。
早朝の太陽に照らされ山肌が赤く染まる現象を。
僕は今、目にしているんだ。
理屈ではない美しさに胸が打ち震えることがある。
どこがいいから、ここに惹かれる、あれが何々なのでとか。
そういった理由や原因が分からないまま、ただ素晴らしいと認めざるを得ない時がある。
ああ、そうだな。
今、僕は感動しているんだろう。
何がどうとかそういった理由のあれこれは要らない。
ただこの自然の美にひれ伏すかのようにして。
「凄いな」
このシンプルな一言だけで十分だろう。
他の登山者達を見る。
皆、僕と同じ方向を見ている。
若い人もいれば高齢の人もいる。
男も女もいる。
社会的に恵まれた人も恵まれていない人も中には混じっているだろう。
だけど山は人を選別しない。
登ってくる者は皆平等に扱う。
舐めて登る者は手痛くあしらう。
けれどきちんと敬意を持ち、丁寧に準備をして無事に山頂を踏んだ者には。
時にこのモルゲンロートのような唯一無二の感動を与えてくれる。
「登ってみてよかったね」
「ほんとに。いい思い出になりそう」
誰かの声が聞こえた。
たぶん夫婦で登ってきた人達だろう。
割とベテランであることは声で分かった。
うん。
これは一生の思い出の価値がある。
思い出か。
僕は視線を奥穂高へと向けた。
淡いピンク色に染まった奥穂高をじっと見つめる。
"もし、もしもだけど"
ざわりと胸の中で何かが動く。
"冬にあそこに登ったなら、また違う何かが見えるのだろうか"
無論答える者などいない。
いるはずもない。
気の迷いだろう。
だが僕の手は無意識の内に握りしめられていた。
ただの仮定のはずなのに。
僕は真剣に考え始めているのか。
小泉の日記のあの一文を。
楽しかったパノラマ銀座もそろそろ終わりだ。
常念小屋を後にして山を下りる。
標高を下げていくと木々が現れ始めた。
岩と灌木の世界はもう終わりだ。
同時にじりじりと体感温度が上がってくる。
快適な山の上の世界とはしばらくさよならだ。
今回は十分に夏の北アルプスを堪能できた。
足取りは軽い。
樹林帯を抜けていく。
3時間半ほどで一気に一の沢登山口まで降りてきた。
標高差1120メートルの下山は足にくるな。
これは明日の筋肉痛が怖い。
「松本行きのバスはこちらでーす」
顔を上げた。
バスの乗務員が手を振っている。
タイミングのいい時間に下りてきたようだ。
チケットを購入し、バスの座席に滑り込む。
ほどなくバスは発車した。
窓から常念岳を見上げる。
山がのしかかるように見えた。
その巨大な姿が遠ざかっていく。
カーブを曲がると僕の視界から山が見えなくなった。
さよなら、パノラマ銀座。
楽しかったよ。
心の中で呟き、僕は目を閉じた。
バスの揺れが疲れた体に心地よい。
松本まで約1時間か。
少し眠るのも悪くない。
そう思った時には意識を手放していた気がする。




