第十五話 燕岳を登る
燕岳は人気の山だ。
ハードルが体力的な部分しかない。
極めて細い足場を必死で辿ることもない。
鎖場が何箇所かあるが難易度は低い。
地元の中学生が遠足で登るということもあるらしい。
2700メートル峰に遠足で山登りは少々やり過ぎな気もするけど。
ともかく北アルプスの山の中ではとっつきやすい方ではあるのだ。
登山道は整備されており、ところどころベンチも置かれている。
"とはいっても楽かというと違うよな"
登り始めて約1時間。
僕はベンチに腰掛け休憩していた。
いや、なかなかきついよ?
知っていたけどこの登りは足にくる。
夏らしく笹が生い茂った山道は急な部分も多い。
この合戦尾根と呼ばれる尾根道は北アルプス3大急登の1つである。
標高のおかげで多少涼しいとはいっても運動量は相当だ。
これが低山だったら熱中症で倒れているな。
夏山らしく軽快な服装にしている。
下はハーフパンツに登山用のスポーツタイツ。
上はドライ仕様のTシャツだ。
山の上は寒いので長袖も持ってきているが、今はザックの中。
高い山に登る際は服装選択で工夫が必要となってくるんだ。
例として言えばこういう感じかな。
夏に都内にいると真昼だと35℃。
これが3000メートル級の山の山頂に登って日が暮れると気温は一桁。
場合によっては0℃近辺まで下がるだろう。
山の上は別世界と考えた方がいい。
気温が全く違うので、服装もそれに対応させていく。
登山は準備が7〜8割を占めると思う。
知識も含めて事前にどれだけ想像力を働かせるられるか。
重要なのはそこだ。
まだまだ燕岳も序盤戦。
休憩を切り上げてザックを担ぎ直した。
肩と背中にかかる重さが夏山を登っていると実感させた。
一歩一歩登る。
地上だと人間は時速4キロが平均歩行速度だ。
登山だとそうはいかない。
この合戦尾根を歩く際はどれくらいだろう。
時速2キロは絶対に割っているな。
高さを稼ぐ部分でどうしても遅くなる。
それでも登山に楽な登るテクニックはない。
自分の足で一歩ずつ刻んでいくしかない。
登り始めから3時間少々。
時刻は正午を回った。
まだ木立の中は抜けていない。
だが、相当高度は稼いできた。
このあたりにあったはずだ。
前方から人々の声が聞こえてくる。
ああ、そうだ。
記憶通りだ。
深い茶色の屋根が見えた。
山小屋だ。
同系色の卓が周りに幾つか置かれ、登山者が談笑している。
この小屋の名称は合戦小屋。
急登の合戦尾根を登ってきた人への格好の休憩地点。
ここで大抵の登山者は一息入れる。
場所的にちょうどいい地点にあるという理由だけじゃない。
合戦小屋名物のスイカが食べられるからだ。
「すいません、スイカ一切れください」
「はい、まいどありがとうございます」
向こうも慣れたもので即出してくれた。
登山の真っ最中にスイカが食べられるのは燕岳くらいだろう。
どうやって山小屋まで運び込んでいるのか、最初は不思議だった。
専用のロープウェイで荷運びしていると知った時は感心したなあ。
ここにはテント場もあり、そこはヘリポートも兼ねている。
急病人や怪我人がいてもこの合戦小屋まで来れば何とかなる。
そうした安心感も燕岳の人気の理由の一つなんだろう。
ともかく今はスイカだ。
豪快にかぶりつく。
みずみずしい赤い果肉が口の中で弾けて溶けた。
水分たっぷりだ。
一口ごとに体が潤っていくのが分かる。
ここまでの登りで火照った体がクールダウンされていく。
見れば他の人達もたいていスイカを食べている。
夏の燕岳の一種の風物詩なんだろう。
時期によってはスイカがお汁粉に変わる。
うどんやそばは通年営業で提供しているので、本当に至れり尽くせりだ。
この高所でこれだけ豊富なメニューがあるのはありがたいな。
"ここからあと90分くらいか"
スイカを食べ終え口元を拭った。
この合戦小屋の標高が2350メートル。
残りは400メートルと少しか。
周りの植物も登山口周辺とはかなり違ってきている。
空気も多少薄くなっているだろう。
意図的に大きく息を吸って吐いた。
念のため高度順応を考えておかないとまずい。
酸素は高い場所ほど薄くなる。
標高3000メートルの地点では地上の70%ほどしかない。
まったく影響が無い人もいるけど高山病になる人もいる。
頭痛、吐き気、だるさで済むならまだいい方だ。
酷い場合は肺水腫――肺や細い気管支に血液が溜まる病気になる。
こうなるとまずい。
呼吸が上手く出来なくなり、咳がひっきりなしに出る。
発汗やゼーゼーと荒い息を繰り返すようになると登山どころじゃない。
もっとも燕岳くらいならここまで酷いことにはならないだろう。
念には念を入れて、薄くなってきた酸素に体を慣らそうというだけの話だ。
"せっかく登ってきたんだから、気分良く過ごしたいし"
目を閉じる。
深くゆっくりと息を吸う。
吐く。
これを数度繰り返した。
今より少し酸素は薄くなるとイメージする。
自分の体がその酸素濃度に順応できるとイメージする。
体の慣れに心を合わせる。
少し気持ち悪くなる程度の状況は想定しておく。
よし。
合戦小屋を後にした。
ちょうどこの辺りから木の高さが低くなる。
だいたい自分と同じくらいの高さだ。
視界が開けた。
明るさを増した空が僕の頭上に広がっている。
周囲の景色もよく見えた。
どこもかしこも山ばかりだ。
北アルプスに来たんだという実感を肌で感じる。
まだ続く急登を歩む。
山頂を探して視線を上にやった時だった。
西側に特徴的な山を認めた。
「おっ」と思わず声が出た。
三角形の山頂が天に向けて突き立っている。
夏の青空と山頂の黒褐色がコントラストを成していた。
あのピラミダルな形はどこから見てもよく目立つ。
槍ヶ岳だ。
日本第5位の標高3180メートルを誇る山。
北アルプスの象徴とも言える登山者の憧れだ。
上高地から歩いていけばあの山に辿り着く。
とにかく人気のある山なので人が多い。
山頂付近の岩場の梯子には登山者が列を成している。
「槍に登ったことがある」と言えば一種の名誉になる。
槍ヶ岳はそういう重みのある山だ。
僕も登ったことがある。
再会にも似た懐かしさが胸を打った。
いつかまたあの山に登る日が来るのだろうか。
いや、それよりもだ。
槍ヶ岳の近くには――そうだな。
歩きながら視線を左、つまり南側へとずらした。
ここからだと薄っすらガスがかってはっきり見えない。
けれどあるのは分かる。
知っている。
槍ヶ岳の南側には北穂高がそびえ立っていること。
その更に南側に奥穂高が鎮座していることを。
トクン、と心の中で何かが跳ねた。
そうか。
僕は穂高連峰を視界に捉えようとしているんだ。
小泉のことを思い出した。
彼女の名前と同じ、夏の穂高だ。
"まったく。ほんとにまったくだ"
苦笑した。
足元に白く細かい石が混じり始めている。
その石を登山靴で踏みしめ、また1メートル山頂に近づいた。
どうしても穂高のことを考えると彼女のことを連想してしまう。
仕方ないとはいえ、山と小泉のことを切り離して考えられない。
別に無理して切り離さなくてもいいのかもしれない。
だけど思い出すたびに苦しくなる。
"君も登山に未練があったのか"
胸の内で語りかけた。
当然返事などない。
灌木が目立ち始めた山道を行く。
遠くに小屋が見えてきた。
燕山荘か。
燕岳の山頂近くにある山小屋だ。
そうか。
なら燕岳の山頂も。
山の風が吹いた。
涼しいな。
陽射しは強いのにそこまで暑さを感じない。
ああ、あそこか。
燕岳の山頂が青空を背景に浮かび上がっている。
思ったより近い。
"あと一息"
稜線に花崗岩の白い岩が立ち並ぶ。
穏やかさと優雅さを兼備している北アルプスの女王の姿だ。




