黒いドラゴン
黒い塊の生き物は首をもたげ、急に身体を伸ばした。
目を覚まして、伸びをしたのだろう。コウモリのような翼を洞窟いっぱいに広げて少し震えている。
≪で、デカい≫
姿かたちはドラゴンだった。色は黒いが確かにドラゴンだ。こんな間近で見るとその大きさに圧倒される。
男が壁に張り付いて目を見開いていると、ドラゴンはグーっと首を回し、己の尻尾のほうを向いた。
「あ」
つい声が出てしまった。
そのドラゴンの黄色い目が男の姿を捉えたのだ。
男とドラゴンはお互いの存在を認識し、見詰め合った。
≪う、うごけない≫
蛇に睨まれたカエルというのは、こういう気分なのだろう。怖いとかそういうレベルじゃない、恐怖感。指一本動かないほどに、睨まれただけで動くことができないというのを実感してしまった。
ジリ、とドラゴンが身体の向きを変えた。少しずつ身体を回し、顔を男の方へ向けてくる。静かに、その大きな体からほとんど音をさせずに、ゆっくりとドラゴンは動いている。
≪ヤバい≫
男の額に汗が流れる。背中も手のひらも汗でびっしょりだ。
吸った息が、口から出てこない。アップアップと肺がはちきれそうになっているのを、心臓がドンドンと打ち付ける。
≪ヤバい≫
せっかくドラゴンから逃れたのに、まさか、落ちてきたところがドラゴンの巣穴だったとは。
ドラゴンは男の方へ向き直ると、顔を高く上げ、威嚇するように見下ろしてきた。
そうして、向こうに周った尻尾をパシリと振った。
「はっ」
その音で、男は金縛りが解けたように感じた。
ここで動かなければ、死ぬだけだ。急に男の体中に力が湧いた。無謀という力であったが、何もしないで死ぬよりずっと良いだろう。
「おっ、俺は、お前を倒すために来た!」
そう言って、手の甲をドラゴンの方へ向けた。
これは自分が“賢者様”だと誇示しているわけだが、ドラゴンに通用するかははなはだ謎である。しかし、ドラゴンはスッと目を細めた。目の前にいるのが、賢者だと分かったのだろう。そして、その“賢者”こそは、ドラゴンを倒すことができる魔法を持っていると知っている顔をしたように見えた。
≪よし、ハッタリ効いた!≫
このハッタリで、ドラゴンが恐れをなして逃げてくれると一番助かるのだが。
そんなに簡単にはいかなかった。
逆にドラゴンは、そんな“賢者”を食ってやろうと考えたのだろう。その大きな口から舌をのぞかせて、口の周りを舐めた。
≪ひえっ、逆効果か!≫
しかしここまでやってしまったのだから、後には引けない。
賢者様が使える魔法はたったひとつ。アレを使うしかないのだ。
≪いいか、俺。間違えるな。靴は履いてない。脚だ。脚を狙うんだ≫
男が何かを狙っているのがわかるのだろう、ドラゴンの喉で唸り声が響いている。
ジリジリと見詰め合う。
隙を見せた方が負けだ。
先に動いた方に分があるように見えるが、攻撃を仕掛ける時こそ防御が薄くなる時。どちらが先に仕掛けるか、間合いを読まなければ、打ったはずが打たれる羽目になる。
随分長い時間が過ぎたように思った。そして、ドラゴンがその手を振り上げようとしたとき、男は魔法を発しようと口を開けた。
「くっつ・・・」
「待った!」
その瞬間、男の魔術詠唱を打ち消すような、女の声が聞こえた。
「「え?」」
緊張の糸が切れた男とドラゴンが、同時に声を出した。女の声が確かに聞こえたのだ。
誰だ。男とドラゴンは女の声の出所を探した。
すると、男からすぐのところに小さな女性が立っているのが分かった。こんなに近くに人がいたのに、男は気付かなかったのだ。
「だ、誰だ」男が叫んだ。
「良いから、落ち着いて」
女は高い声で男とドラゴンに向かって言いながら、少しずつ近づいてきた。それから、男に向かって言った。
「このドラゴンは悪いドラゴンじゃないから、殺さないで」
「悪いドラゴンじゃない?どうしてそんなことがわかるんだ」
男は内心ホッとしながら聞いた。
「だって、ずっと見てるけど、このドラゴン悪いことしないわ。それに、多分言葉もわかってる」
「言葉がわかるだって?マジで?」
「ええ・・・ね?」
女はドラゴンに向かって首を傾けると、ニッコリと笑った。
それに応えるようにドラゴンは首を縦に振り
「はい」と答えたのだった。
「マジで~?」
男は本気でおったまげて、目を剥いてドラゴンを見た。
「ね?だから殺さないで?」
「お願いします」
思わず礼儀正しいドラゴンのお願いに、男はさらに驚愕した。しかし、ドラゴンの言い分だけを信じられるのだろうか。
「お願いって言われても、それで俺が食われたり焼き殺されたりしたら割に合わねえだろうが」
男は先ほどのドラゴンの殺気を思い出して身震いした。
「いえ、私は人間を食べたりはしません。先ほどのは、威嚇されたから身を守るためにしたことで」
≪あれが身を守るための殺気か≫
なんだか腑に落ちないことばかりではあるが、どうやら本当にこのドラゴンは悪いドラゴンではないようだった。
殺す気があるなら、今ここで殺しているだろうし、それに言葉を喋るどころか“賢者”であるはずの男よりもずっと言葉づかいは丁寧だ。
悪いやつには思えなかった。
「わかったよ」
男がそう言うと、ドラゴンはまた首を縦に振って頷いた。そして女の方も、笑顔になった。
「良かった~!」
「でも、アンタたち一体何者なのさ」
結局ここに集まった者たちは、何か普通からは考えられない者たちばかりだということがわかるが、一体何なんだろうか。
「自己紹介しましょうよ」
女は男とドラゴンの間に立ち、両手を上げた。
どうやら自己紹介タイムが始まるようだった。




