残してきたもの
『こんばんは、悠人さん。真夜のせいで大変だったようですね』
「はい。ご心配おかけしました……」
杏子さんは、既に凛々子さんたちからおおよその事情を聞いていたらしい。
長々と説明するまでもなく、向こうから優しく声をかけてくれた。
『こちらのことは気にせず、紗羅と過ごしてあげてくださいね。悠人さんと会えない間、あの子は随分と塞ぎこんでいましたから』
「ありがとうございます。俺、紗羅への気持ちは変わりませんから」
『それは良かったです』
彼女を安心させるにはどうしたらいいだろうと思い、素直な気持ちを言葉にすると、電話の向こうからくすりと笑う声がした。
『では、せっかくですから世羅にも代わりますね。少々お待ちいただけますか?』
「はい」
答えて待てば、スピーカーからかすかに足音が聞こえる。程なく足音は止まり、ドアをノックするような音。
会話しながら世羅ちゃんの部屋へ移動してくれていたんだな、と音で察する。あの屋敷の間取りまで脳裏に蘇ってくるようだった。
『もしもし、悠奈さん?』
「うん、こんばんは、世羅ちゃん」
明るい声にほっとしつつ答えると、「世羅、今は悠人さんですよ」と杏子さんの声。
『あ、そっか。じゃあ……悠人さん。元気でしたか?』
「元気だよ。世羅ちゃんも変わりない?」
『はい! あ、でも、悠奈さんがいなくなってちょっと寂しいです。絶対、今度遊びに来てくださいね?』
「うん。必ず行くよ」
世羅ちゃんとも再会を約束して電話を切った。なんだか暖かい気持ちになって、ほっと息を吐く。
それから、なんとなしにメールの受信履歴を覗くと、なんだかいっぱい溜まっていた。その大半が慎弥からだ。
……ついでに、あいつにも連絡しておくか。
思って慎弥の番号をコール。こちらもすぐに応答してくれた。
『もしもし、悠奈か?』
「ああ、いや。俺」
がたん、とスマホを床に取り落とすような音が聞こえた。
「だ、大丈夫か?」
『大丈夫か、じゃない! 一体どういうことだ?』
珍しく動揺した様子で言われた。
考えてみれば、真昼の試練の件から連絡していなかったわけで。慎弥の剣幕ももっともなのだが……何をどう説明したらいいものか。
全部話すわけにはいかないし、ある程度省いて伝えるにしても選択が難しい。
「それが、色々あって戻れることになったんだよ」
『知らない間に色々ありすぎだ!』
ごもっともです。
「ま、まあ。だから、もしかしたらまた高校に通える、かも」
『……なるほど。要するに現在進行形で巻き込まれ中なわけだな?』
「ぶっちゃけると、その通り」
はあ、とため息が返ってきた。
『わかった。期待しないで待っていよう。……ただ、そうすると澪が残念がるだろうな』
「……ああ。澪ちゃんには悪いことをしちゃうな。けど、紗羅はこれまで通り清華に通えるから」
『そうか。まあ、僕も出来る限り宥めてみるさ』
「ありがとう、慎弥」
『いや。一応、これでも友人だからな』
友人、か。本当にありがたいな。
通話を切り、スマホをズボンのポケットにしまう。池の外周を囲む石の一つに腰かけると月を見上げた。
清華でのクラスメート、杏子さん、世羅ちゃん、慎弥に澪ちゃん。二か月間、たった二か月、別の人間として暮らしていただけで、多くの人に影響があったことをあらためて感じた。
元の身体に戻るという願いが、かなり大それたものであったということも。
「戻ったこと、後悔してる?」
夜の空気を震わせた声は、すっかり馴染みになった女悪魔のものだった。
彼女は黒猫の姿のまま俺に歩み寄ると、当然のごとく胸に飛び込んでくる。やはり男の胸では物足りないのか、不満そうに息を吐いていたが。
「後悔はしてないよ」
「ふうん? 本当かしらね?」
何だこいつ。俺が後悔してることにしたいのか?
まあ、だとしたら「もう一回悠奈になりたい」で最後の願いを使わせるつもりとか、そういうことなんだろうけど。
実際、後悔しているつもりはない。
元に戻らなければ、華澄や悠華に会うこともなかっただろう。会ったことで色々、余計なトラブルも起こったけど、彼女たちのことは好きなのだ。
「……でも、悠奈として過ごした時間も悪くなかったんだな、って思った」
「そう。我儘なことね」
「全くだよな……」
本当にその通り。贅沢な悩み方をしていると思う。
今の俺にとって「自然」なのはどういう状態なんだろうな。
胸元に毛玉の温もりを感じながら、俺はぼんやりと考えた。
* * *
十二月三十日。
あっという間に今年もあと二日を残すのみとなった。
となると、俺と紗羅が自主的に定めた目標に沿うなら、少なくとも明日までに悠華から男性機能を取り戻さなくてはならない。
そのためには「自然体」で「気配を殺す」ことが有効らしいのだが。
「御尾くん、何か思いついた?」
「……どうだろう。よくある話に従うなら色々思い付きはするけど」
朝食の後、俺の部屋で紗羅と話し合う。
思いついた案その一は「心の目で見る」。
あえて目を閉じ気持ちを静め、相手の動きを掴む。ただし俺は武道の達人でも何でもないうえ、この方法はむしろ「素早い動きで攻めてくる相手に対処する方法」である。
案その二「心を空っぽにする」。
その一に近いが、要は無心で悠華を追いかける。比較的まともな方法だが、訓練もせず実現するのは不可能だろう。
案その三「動作を最適化する」。
動作を何度も繰り返すことで意識せず行えるようにする。大分マシだけど、やっぱり訓練は欠かせない。
っていうか、俺にはまず「気配を殺す」っていうのがファンタジーなんだよな……。
「逆に、悠華はどうやって俺たちを感じてるんだろ?」
「基本的には五感だと思うけど……感度は私たちよりずっと鋭いかも。後は、魔力も感知されてると思う」
畳の上に並んで座ったまま尋ねると、紗羅は首を傾げながらそう答えた。
「じゃあ、紗羅の身体強化も?」
「うん。あの子なら、外部に放出していない魔力も感じているかも。でも『わかっていても避けられなければ』関係ないから」
紗羅は純粋にスピードで対抗しようとして、一歩及ばずにいる。
彼女の力で届かないなら、俺が同じ方法を取っても無理だろう。
「つまり、悠華に気づかれにくくするには五感を刺激しないようにしつつ、魔力も使わなければいい、と」
音を立てず、なるべく予備動作を減らし、それでいて素早く行動する。なおかつ紗羅と連携できればなおよし。
そんな『条件』をあらためて確認した俺は頷いた。
「よし」
「決まったの?」
「ああ」
方針は定まった。あとは実行するだけだ。
俺は紗羅を促し、悠華を呼び出すために部屋を出た。
* * *
交錯する少女たちを眺めつつ、双方の姿を目で追いかける。
紗羅にはこれまで通り、悠華を追いかけてもらうことにした。負担をかけてしまうことになるけど、彼女は快く了承してくれる。
「いい運動になるし。それに」
「それに?」
「疲れたら、御尾くんが癒してくれるでしょ?」
「……ああ、もちろん」
二人の対戦風景にも少しずつ変化が見られる。だんたんと紗羅が鬼ごっこに慣れつつあるようで、避けられたあと方向転換するまでのスピードが上がっている。
それでも追いつけないのだから、悠華のすばしっこさも相当なものだが。
「やっ」
「おっと」
べちゃ。
隙を見計らって飛びかかった俺は地面に転ぶ。
立ち上がり、また様子を見つつ飛びかかっては、転ぶ。
ずるっ。どて。べちゃ。べちん。
「悠。それがお主の答えか」
「ああ」
一見、何が変わったのかもわからないだろうけど、それでいい。
結局、すぐさま劇的に動きが良くなるような秘策なんて俺には思いつかない。だから格好悪くても地道にやらせてもらう。
俺たちは昼食を挟んで午後も鬼ごっこを続け――遂に悠華を捉えたのは夕方になってからのことだった。




