紗羅の母親
夕方。入浴を済ませた俺は一人で厨房へ向かった。
「あら、悠奈さん。どうしましたー?」
「あ、いえ。ちょっと凛々子さんに用がありまして」
厨房は凛々子さんの城で、今まで飲み物や調味料を取りに何度か訪れた程度だった。そこにわざわざやってきたのは、昼間の推測を確かめるためだ。
「ご用、ですかー?」
厨房で一人、動き回る凛々子さんは手を止めないまま首だけを傾げる。
二、三人が並んで作業できそうな空間には新鮮な野菜のいい匂いが満ちていた。じゃがいもに人参、玉ねぎ……メニューの候補は多いが、パターン的にはポトフとかだろうか。
てきぱきと進む調理の様子を眺めつつ、俺は答えた。
「はい。ご飯、料理しながら食べてるのかなって思って」
「あー。そういう時もありますけど、皆さんが食べ終わった後の方が多いですよー? どっちにしてもお見せするようなものじゃありませんが」
「そうなんですか」
にこにこと答える彼女に頷き、一歩、近寄る。
……こういう腹芸みたいなのは全然、得意じゃないけど。
「てっきり、普通の食事はしてないのかとも思ったんですが」
「……何の話ですかー?」
返答までには一瞬だけ間があった。
同時にちらりと送られてきた視線には、探るような意味合いが含まれている。これは、多少は俺の予想が当たっていただろうか。
ならばと、他の家人の気配がないのを確認して、
「内緒話、できる方法ってありませんか?」
「まあ、あるにはありますけどー」
そんな返事の後、俺は周囲の空間がかすかに変化するのを感じた。「これでいいですかー?」と続いた声は、まるでスピーカーか何かを通したみたいに周囲で反響している。
一定範囲にだけ声を伝える仕組み、みたいなことなのかな?
「これ、俺はそのまま話して大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよー」
「ありがとうございます」
息を吸い、気持ちを落ち着けてから声を出す。
「間違ってたらすみません。もしかして、紗羅のお母さんって凛々子さんだったりしますか?」
何と返ってくるだろう。
間違いなら間違いでそれは構わな……。
「そうですよー」
「へ?」
「だから、その通りですよー」
軽っ!?
「私、割と緊張したんですけど……」
「だって、これ以上はしらばっくれても無駄そうでしたしー」
凛々子さんはなおも料理を続けながらそう言った。ここからでは横顔しか見えないが、案外動揺は無いようだ。
「でも、どうしてわかったんですかー?」
「えっと……まず、今までのことを思い返してみたら、試練に関する夢を凛々子さんだけ見なかったのはなんでなのか疑問が浮かんだんです」
最初は、単に家人ではないからかと思った。
でも、だとすると紗羅が夢を見ていたのがわからない。深香さんがそうしていたように、杏子さんの娘でない紗羅も「部外者」として扱われる方が自然じゃないか。
紗羅のお父さんも天使の血を全く引いていないわけではないらしいけど、そんな薄い血まで判定するものなのか?
暮らしてきた年数や信頼関係で言うなら凛々子さんにも資格があるんじゃないのか?
「って。だから実は、最初に思いついたのはもう一つ先の事なんですけど」
「? 先、ですかー?」
「はい。紗羅は、『杏子さんと凛々子さん』の娘なのかなって」
かしゃーん、と金属が床に落ちる音。
「凛々子さん、包丁……」
「どうして」
「え?」
「どうしてそこまで気づいちゃうんですかー!?」
がばっ、と凛々子さんが俺に詰め寄ってくる。落とした包丁も作りかけの料理も放置したまま、である。
ここまで動揺した凛々子さんは初めて見たかも。
戸棚を背に、顔の両脇に手をつかれた状態で、俺は。
「もしかして大正解でした……?」
尋ねると、凛々子さんは突如硬直した。
何と答えようか思案しているのがバレバレの態度で視線を巡らせ、言ってくる。
「まさか。女同士で子供が作れるわけないじゃないですか」
「いや、その。実は深香さんから『サキュバスはその気になれば生やせる』って聞いたことがあって」
「……あの人は、また余計なことを」
はあ、とため息。
ちょっと申し訳ない気分になりつつ、俺は推測の元となった理由を一つ一つ述べていく。
まずは真夜との一件。
ペンダントによって紗羅の正体を暴いた俺を眠らせたのは凛々子さんの暗示だった。最近になって、俺は紗羅から魔法の媒介に『言葉』を用いるサキュバスがいると聞いている。
また、俺の記憶が消されることを紗羅に喋ったのは凛々子さんだった。
真夜との戦いの後に俺たちを迎えに来てくれたのも凛々子さん。杏子さんに俺たちを手助けする意図があったなら、ただの一般人を送ったりしないはず。
それから深香さんとの件。
俺が彼女に振り回されていた時、凛々子さんは紗羅のために忠告してくれた。
それに、思えば紗羅と凛々子さんは容姿や仕草がどこか似ているし、紗羅が屋敷を出る話になった時、迷わず「付いていく」と言い出したこともあった。
「あと、一番の理由は紗羅の翼です」
これまでに二度目にした、紗羅の黒い羽毛の翼。
あれは何だろうと考えた時、一番簡単な答えは「天使とサキュバスの混血」だった。
両方が混ざったらああいう色の翼になるんじゃないかっていう、ものすごく単純な発想だけど……。
紗羅が凛々子さんと杏子さん、二人の娘だとしたら、凛々子さんが昔からこの屋敷にいた理由も、杏子さんから信頼されていた理由もわかる。
そう考えれば、試練の夢は単に「屋敷内で、天使の血が濃い者」が見たのだと納得もいく。
異なる種族同士で、しかも同性。公にできない関係だけど、お互いに想いあっているのだと。
「……でも、やっぱり理屈だけじゃ半信半疑だったんですけど」
「最後は女の勘、ですかー?」
「勘弁してください」
ふっと微笑んで言った凛々子さんに苦笑を返す。勘なんてものが使えるほど、俺は女の子歴が長くない。
――凛々子さんはそれから、調理に戻りつつ俺に話してくれた。悠奈さんって変な時だけ鋭いですよねー、とこぼしつつ。
「お察しの通り、お嬢様は私と杏子様の娘です」
「……えっと。『お母さん』は凛々子さんなんですよね?」
深香さんから聞いた『生やす生やさないの話』は、具体的にはこうだった。
『……ちなみにサキュバスの力を使えば、紗羅さん自身か悠奈さんに『生やす』ことはできると思いますけど』
パートナーに『生やす』ことも可能。
だから、一方がサキュバスであれば父親役はどちらでも構わないのだが。
「そうですねー。役割的に言うと、杏子様は父親になります」
お腹を痛めたのは凛々子さんの方。
つまり紗羅のお父さんは杏子さんで、お母さんは凛々子さん。
世羅ちゃんのお父さんは亡き杏子さんの旦那さんで、お母さんは杏子さん。
単なる父親違いではなくてややこしいが、二人はどちらも杏子さんの血を引いた娘ということになる。
なのに紗羅がどうして、世羅ちゃんのお父さんと「名の知れぬ誰か」の子供ということになったのか。……この詳細は聞かない方がいいだろうか。
むしろ俺は、杏子さんが『生やして』凛々子さんと、という無駄な想像を追い出すので手一杯だった。
「このことって、紗羅や世羅ちゃんは知ってるんですか?」
「私とお嬢様の血が繋がっていることは、おそらく知っていらっしゃると思います。直接お伝えしたことはありませんが」
じゃあ、お互いに知っててあんな風に接してたのか。
「凛々子さん」「お嬢様」なんて、他人行儀な呼び方をして。
……いや。逆なのかな。下手に親しくしてしまうと歯止めが効かなくなるからこそ、そういう風にしていたのかも。
「逆に言うと、紗羅も自分の父親が誰かは知らないんですね」
「はいー。それに関してはついこの間――お嬢様の『翼』の件が伝わるまで、杏子様にも内緒にしていましたから。公式的にはお嬢様は、亡き旦那様と私の子です」
「……マジですか?」
「マジですよー」
じゃあ、本当につい最近じゃないか。
それまでは杏子さんすら、紗羅が自分の娘だって知らなかった?
「どうしてですか?」
「決まってます。お嬢様への迫害を避けるため、ですよー」
告げられた理由は、俺にとっても予想外のものだった。




