散歩の途中で
日曜日。目が覚めると、ここ数日続いている不快感は幾分か和らいでいた。
「もうちょっと、ってことかな……」
終わりの兆候が見えたことにほっとしつつ、朝の身支度や朝食を済ませた。
そのあとはとにかく試験勉強。俺はどっちかというと、テスト対策より普段の授業をしっかり受ける方が大事だと思うタイプだけれど、かといって疎かにしていいわけでもなく。
特に今回は清華に来て初めてのテストなので入念に取り組んだ。
ときどき、疑問が出たら紗羅と互いの部屋を行き来したりしつつお昼を迎え、その食事の席で、世羅ちゃんからちょっとした申し出を受けた。
「悠奈さん、良かったらあとでお散歩に行きませんか?」
「散歩?」
首を傾げる。行くのは吝かでもないけど、何でまた?
「ずっとお家にこもってるのも気分が変わらないかなって。どうですか?」
「そっか。うん、じゃあお言葉に甘えようかな」
「良かった。ありがとうございます、悠奈さん」
にっこりと微笑む世羅ちゃん。どうやら体調の思わしくない俺に気を遣ってくれたようだ。その心遣いが嬉しい。
実際、これ以上文字と睨めっこし続けるのも良くない気がするので、外の空気を吸って気分転換しよう。
「世羅。それ、私も行っていい?」
「もちろん。お姉ちゃんも一緒に行こう?」
と、紗羅の同行もすぐさま決まった。この二人も相変わらず仲がいい。そんな紗羅たちを杏子さんと凛々子さんはにこにこと見守っていた。
というわけで、食後しばらくしてから三人で近所を歩いて回ることになった。
羽々音の屋敷がある周辺は静かな住宅街だ。特に高めのお家が並んでいる一角で、中でもうちの屋敷はひときわ大きい。
近所にはバス停があり、駅前まではやや距離があるものの徒歩圏内。静かな公園なんかもあったりして、住むには割といい場所だと思う。
「そういえば、逆に屋敷の周りってあんまり歩いてなかったかも」
「ただのお散歩って、なかなかしないですもんね」
モールに行ったり、駅前へ買い物に出たりはしたけれど、逆に灯台もと暗しだった。登校の時はバス停に直行しちゃってるしな……。
だから、案外周囲の風景に目を向けると新しい発見があったり。
この家は犬飼ってるんだー、とか、ここの人なかなかいい車に乗ってるな、とかその程度だけど。
「うん、こういうのもいいね」
「良かった。生理のときって辛いから、どうなのかなって思ったんですけど」
自分の体験を思い出したのか、眉を顰めながら言う世羅ちゃん。
「なんか、世羅ちゃんがそういう話するのって変な感じ」
「えー。私だって中三なんですから、当たり前じゃないですか」
そうなんだけど。昔は女の子のそういう生々しい話って聞けなかったから、自分より年下の子から聞くと違和感があるのかも。
そう言うと、世羅ちゃんから「女の子に夢を見過ぎですよ」と言われた。
……まあ、確かに。清華に来てからは、『色んな意味で』リラックスした女の子の姿も見てはいる。
そんな話をしつつ歩いていると、やがて一般の住宅街へと差し掛かった。
「それで、世羅? どこか行きたいところはある?」
「ないよ。もう、お姉ちゃん。今回は本当にただのお散歩だってば」
不意に紗羅が言うと、世羅ちゃんが頬を膨らませて反論する。
しかし、紗羅は何か思うところがあるのか、なおも首を傾げてみせた。
「そう?」
特に悪意も強制力もない、けれどどこか放っておけない姉の仕草に、世羅ちゃんはしばらくしてから息を吐いた。
「……行きたいところがないのは本当だよ。ただ、今のうちに悠奈さんとお話したりしておきたいな、って思っただけ」
「私と?」
歩みを止めないまま問い返す。
世羅ちゃんは俺をふっと見上げ、微笑んだ。
「だって、悠奈さんと一緒に居られるのは、あと少しかもしれないじゃないですか」
「……ああ」
天使の試練の件があったからか。
あれをクリアして元の身体に戻れば、俺は家に帰ることになるだろう。そうしたら世羅ちゃんともお別れになる。
「そうなってもまた会えると思いますけど、今じゃないとできないこともあるから」
彼女の言う通り、『羽々音悠奈』と『御尾悠人』では接し方も変わってくるだろう。今はちょっとした姉妹みたいな関係を築けていると思うけど、元に戻ったら多分、俺は世羅ちゃんを『紗羅の妹』として扱うことになると思う。
「私、悠奈さんのことも好きだから。ちょっと寂しいな、って」
世羅ちゃんが恥ずかしそうにはにかむ。
もちろん、俺に戻って欲しくないわけじゃない、と彼女は付け加えるが、それは俺も紗羅もわかっている。二人で世羅ちゃんに微笑みを返した。
「まだ気が早いよ」
「うん。試練は三つもあるらしいし、どれくらい時間がかかるか……っていうか、そもそも最後まで終わらせられるか……」
「終わらないのも困ります!」
紗羅の台詞に同意して見せれば、慌てたような返事。それを見てまた二人で噴き出してしまった。つい頭を撫でたくなるけれど、路上だとやりづらいし、今やったらきっと拗ねてしまうだろう。
「それに、案外すぐに終わっちゃうかもしれないじゃないですか」
「あはは、そんな簡単にはいかないと……」
交差点にさしかかったため、立ち止まる。俺は世羅ちゃんの言葉に軽く答えつつ、ふと周囲に視線を巡らせ――ある一点で止まった。
横断歩道の向かい側に一人、ぽつんと立つ女の子の姿。顔は正面を向いているもののどこか虚ろで、身体もふらついているように見える。
体調が悪いのかな? とも思ったが、次の瞬間、彼女の視線が動いた。
道路を走ってくる大型車、それを視線に収めると目を細める。
「悠奈ちゃん、どうしたの?」
「……あの子、変じゃない?」
俺の言葉に紗羅と世羅ちゃんも視線を向ける。その間に大型車は俺たち、それから少女のいる交差点に近づいていた。
そして――少女が不意に一歩、踏み出した。歩道から車道側、横断歩道へと。
「え……?」
俺たちは驚きから口を開いた。
あれではまるで、意図的に轢かれようとしているみたいだ。
まずいと思うも、ここから駆け出しても間に合わない。そもそも位置関係的に割って入りようもない。
「危ない!」
仕方なく、俺は大声を振り絞った。
距離と車のエンジン音、周囲の生活音を考えれば、それでも届くか微妙な気がしたが、幸い少女は気づいてくれたようで、はっと顔を上げて足を止めた。そこで大型車が少女の正面を通過していく。
どうやら事故は免れたらしい。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「本当に。ありがとう、悠奈ちゃん」
「あの子……どうしてあんな事したんだろう」
口々に言いつつ向こうを見やれば、ちょうど信号が青に変わったところだった。
少女はこちらをじっと見つめたあと、くるりと身を翻す。そのまま俺たちから離れるように歩き出した。
俺たちは顔を見合わせ、すぐに横断歩道を渡って彼女の後を追った。
「待って!」
向こうの歩調はゆっくりだったため、横断歩道を渡り切り少し進んだところで追いつけた。紗羅が呼び止めると、彼女は立ち止まって振り返った。
「……何でしょうか?」
無表情のままに硬い声が返ってくる。さっきのことを気にしていないのか、あるいは気にしていてこちらを警戒しているのか。
「ちょっと、話せないかな?」
「別に、話すことなんてありません」
彼女はそう言いつつも無理やり立ち去ろうとはしなかった。別に俺たちも彼女を取り囲んではいないのだけれど。
女の子だけだっていうのが多少は効を奏したか。
「そう言わずに。ね?」
そこで世羅ちゃんが前に出て、にっこり笑う。
彼女の邪気のない笑顔に何かを感じたのか、そこで少女は口ごもった。
「……少しだけなら」
渋々ながらも了承をもらった俺たちは、彼女を近所の公園へと誘った。




